【３・決戦のバレンタインディ】
２月１３日の午後。はやや緊張して、みんくに教えられた住所へ赴いた。
そこはごく普通の住宅地の中の一軒だった。門には『白石』と書かれた表札が飾られている。インタフォンを押すと落ちついた大人の女性の声が答えた。
『はい…？』
「こんにちは！ 私、みんくちゃんの友達で、と申します。みんくちゃんと今日、ケーキを焼く約束をしたんですが…」
『はい。さんね。いつも、みんくがお世話になっております。ちょっと待ってくださいね』
足音が響き、玄関のドアが開けられた。長い髪を後ろでまとめた女性が、を手招く。
「いらっしゃい。今、みんくはちょっと手が離せないみたいなの。そのままキッチンへ行っていただけます？ あ、コートはお預かりしますね」
案内されるままにコートを預け、キッチンへ入る。ちょうどキッチンテーブルの前で、エプロン姿のみんくが丸い焼き菓子をひとつずつ袋詰めしているところだった。キッチンには甘い香りが満ちていて、興味津々のオムがみんくの手元を覗きこんでいる。
「みんくちゃん、こんにちは！」
が声をかけると、みんくは手元から顔を上げて、ニッコリした。
「あ、ちゃん！ ごめんなさい。もうちょっとで終わるから待っててね！」
透明な袋に詰められているのは丸い形をしたマカロンだった。今年のみんくの手作りバレンタインチョコは、マカロンにブランデーで風味づけしたチョコレートをサンドしたものらしい。
「うわ〜、おいしそうだね！」
が言うと、みんくは照れて頬を赤くした。
「ケーキも作るから、あまりお腹にたまらない物のほうが、先輩も食べやすいかなって思って…」
テーブルの上には透明な袋や違う色のリボンがたくさん準備されている。その手間のかけ方に、みんくの真剣な想いが伝わって、は微笑んだ。
が見ているうちに、みんくはマカロンを全て詰め終わり、冷蔵庫にしまった。
「これでよしっ。お待たせ、ちゃん」
今度はが持って来た荷物をキッチンテーブルの上に広げる番だった。いろいろ相談した結果、今回２人が作るのは、チョコレートケーキ１ホールではなく、人数分のチョコレートカップケーキになっていた。
本当は、みんくから事情を聞いた真帆子と叶花も、一緒に作りたがったのだが、あいにく２人とも仕事が入っていて、今日はとみんくの２人だけだった。
「よし、じゃあ、作ろうか」
の言葉に「はいっ」とみんくが元気良く返事をする。エプロンを身につけたの指示で、薄力粉をふるうためにみんくが袋を開けたとたん、白い粉がキッチンを舞った。
「きゃあっ！？」
顔から胸元にかけて真っ白になってしまったみんくと、その傍を飛んでいて全身真っ白になったオムが、そろって情けない顔になる。は吹き出した。
「みんくちゃん、袋を開けるのに力をこめすぎだよー！」
しかし、一方のは製菓用のチョコレート刻みに悪戦苦闘する羽目になった。暖房が効いているため、包丁で刻む端からチョコレートが溶けてしまうのだ。
チョコレートを全部刻み終わる頃には、は両腕と胸元がドロドロのチョコレートまみれになっていた。振り向いたを見て、みんくとオムはお腹を抱えて笑った。
「ちゃん、顔にもチョコレートがついてるよ！」
みんくに言われ、は慌てて冷蔵庫に下がっている鏡を覗きこんだ。なにかの拍子でこすったらしく、頬と鼻の頭に茶色の跡がついて、ヒゲのようになっている。
「やだ〜！」
思わず悲鳴をあげたの傍に、オムが濡れタオルを持って飛んで来た。
『拭いてあげるから、じっとして』
お湯で絞ったホカホカのタオルで拭いてもらうと、の気分もさっぱりした。そうしている間にも、みんくはボールに生クリームとバターと砂糖との刻んだチョコレートを入れて、温めながら溶かしている。
続いても、卵を卵黄と卵白に分けてボールに割り入れ、泡立て器で卵白を泡立て始めた。
みんくはさっきのボールに、卵黄と先ほどふるった薄力粉を加えている。しめった粉があちこちに飛び散り、みんくの頬にもついたが、みんくの表情は真剣そのもの。も卵白を泡立てるのに一生懸命で、今度はからかっている余裕がなかった。またもや濡れタオルを持ったオムが飛んでいき、みんくの顔を綺麗に拭き取った。
みんくが混ぜたボールにの泡立てた卵白を加え、それらの液を耐熱のカップ８個に流しこむ。そしてオーブンに並べて入れると、後は焼けるのを待つだけとなった。
しかしとみんくは休む暇もなく、流しに向かい、後片付けを始めた。がスポンジに洗剤をつけて、ボールやまな板などの汚れをこすり落とす。汚れが落ちたところで、泡だらけになった食器をみんくがお湯で洗い流す。更にそれをふきんを持ったオムが受け取って、水気を拭き取っては食器棚に戻した。
洗い物をしながらも、みんくはちらちらとオーブンのほうばかり見ていた。
「ちゃんと焼けるかなあ」
「大丈夫だよ」
慰めながらも、も責任の重大さに内心、ドキドキしていた。
ふとなにかを思い出した様子で、オムがの顔を見た。
『そう言えば、明日、ちゃんは誰にどんなチョコをあげるの？』
一瞬、意味が分からず、きょとんとしただったが、“本命チョコ”の意味だと悟って苦笑した。
「誰にもあげないよ。みんくちゃんにとってモトハルくんみたいな人、私にはいないもん」
「え！？ そうなの！？」
みんくもビックリした顔になる。
「まあ、私の事はどうでもいいよ。みんくちゃんが無事にモトハルくんにチョコを渡すほうが、今年の私には大事だもん」
があっさり一言で片付けると、真面目な顔でみんくが答えた。
「そんな事言っちゃダメだよ。いつ、どこで“運命の人”と出会えるかなんて、誰にも分からないんだから」
少女趣味なみんくの言葉に、はクスクス笑い、その言葉を否定も肯定もしなかった。
床に散った粉やチョコレートを拭き取り、キッチン中を拭き清める。キッチンが完全にピカピカになったちょうどその時、オーブンのタイマーが鳴った。とみんくはヤケドに気を付けながら、オーブンの扉を開き、ケーキを取り出した。
試しに竹串で刺してみると、生地はついてこない。
『焼けたみたいだね。お疲れさま』
オムが２人に紅茶を運んで来た。２人はお礼を言って、紅茶に口をつけた。
つまみ食いのために、１個余分に焼いておいたケーキを、みんくが包丁で３等分する。ケーキはふんわりと焼けていて、甘い香りが漂った。子犬のように鼻を鳴らし、オムが幸せそうな顔をした。
「“せーの”で一緒に食べようよ」
程よく冷めた頃合を見計らって、が提案する。３人は「せーの！」と掛け声をかけて、同時にケーキをほおばった。
とたんに幸せそうな声が上がる。
『うわ〜！ おいしい！ ボク、こんなの初めて食べた！』
「おいしいおいしいおいしい…∞」
ほっぺを押さえて、とろけんばかりの表情を浮かべるオムとみんくを見て、もニッコリする。
「…本当においしいね！ 上手に焼けてよかった！」
後はケーキを透明な袋に詰め、リボンをかけ、ケーキ用の箱に詰めるだけ。箱はが持って帰り、翌日、事務所に持って行く事になった。
そして、その夜、はケーキの箱を大事に抱えて、帰宅した。
※※※※※
翌日、バード･ミュージック事務所のティータイムはとても賑やかになった。
とＭｉｎｋが給仕するチョコレートカップケーキに、モトハルや有香、Ｍａｃｏ、Ｃａｎｏｎも大喜びだった。
「やん♪ おいしいっっ♪ どーして、１人１個しかないのォ？ 有香、もっと食べたいっっ♪」
お代わりがなくて残念そうな有香に、はまた作って来てあげると約束した。
「きゃっっ♪ ラッキィ♪ 次はバウンドケーキねっっ♪ ナッツやレーズンがたくさん入ってるのっっ♪」
「ワガママばかり言って困らせるなよ、有香」
そう言いながらも、モトハルもニコニコしている。
「あーあ、いいなあ。あたしも一緒にケーキ焼きたかったあ！」
「あたしだって収録さえ入ってなければねー」
残念そうなＭａｃｏとＣａｎｏｎに、は急いで提案した。
「今度はＭａｃｏちゃんとＣａｎｏｎも一緒に作ろうね。合宿所のキッチンをお借りしてもいいし」
の言葉に、ぱぁっと全員の表情が明るくなる。
「早く春休みにならないかな♪」
思わずＭｉｎｋが呟いたところをみると、よほど楽しみらしい。
やがて、ケーキを食べ終わると、Ｍｉｎｋ達はそれぞれ収録や撮影に出かけて行った。アイドル達をみんな送り出したモトハルも、出かける支度を始める。
はテーブルの上を片付けようとして、全員が食べたはずなのに、１個だけカップケーキが残っているのに気がついた。
「あれ？」
首をひねり、事務所の人数とケーキの数を指を折って数える。そして納得した。オムのために焼いたケーキが余っているのだ。まさか、モトハルや有香の前で、ロボットのふりをしているオムがケーキを食べるわけにもいかなかった。
「…どうしようかな…。持って帰るかな…」
お皿の上に鎮座したままのケーキとにらめっこしながら、はとりあえずカップの後片付けを始めた。そのまま事務所のゴミ箱を片付けていて、は金色に輝く包み紙が捨ててあるのを見つけてしまった。
「あーっ！？」
「え？ どうかした？」
ヘルメットとバッグを持ち上げかけたモトハルが振り返った。
「…あの、これ、バレンタインチョコの包み紙だよね。モトハルくんが捨てたの？」
「ああ。今朝、登校前の有香が事務所に寄って、くれたんだ。朝飯代わりに食べたけど美味かったよ」
相槌を打ちながら、は内心ため息をついた。有香のバレンタインチョコは、ゴージャスなパッケージで一目でそれと分かる、超有名ブランドだ。はバード･ミュージックのバイトになった後で、どうやら有香もモトハルが好きらしいとその態度から気付いていた。Ｍｉｎｋとモトハルの仲がいいので、有香なりに気を遣っている様子でもあるが、このチョコを見る限り、恋心を諦める気持ちまではないらしい。
…は、みんくの手作りチョコを思い浮かべて、金色の包みを改めて見直した。…値段とゴージャスさの勝負では、どうもみんくが負けているようだと、しぶしぶながら認めてしまう。
その時、事務所のドアがノックされた。ひょっこりと顔を出したのは、みんくだった。Ｍｉｎｋの姿で仕事に出かける振りをして、変身を解いて戻って来たらしい。
「お、白石さん。どうしたんだ？ 今日はとオレの他は誰もいないぞ」
「あ、いえ、あの、その、先輩に…」
もじもじしているみんくの手には、も見覚えのある紙袋が握られている。
は気を遣って、カップをお盆に載せて、事務所の隣りの簡易キッチンへ移動した。ドアを閉めて、流しの蛇口をひねる。洗い物をする音の合間に、とぎれとぎれに隣室の２人のやり取りが聞こえて来る。
「ええっ！？ チョコレート！？」
突然、モトハルの声が大きくなった。嬉しそうではない。むしろ困った声だ。ドキリとしたは手を滑らせ、カップを割ってしまった。慌てて水を止めて、カケラを拾う。ドアの向こう側ではモトハルの弱り切った声が続いている。
「…朝からチョコレートばっかり食べてるしなあ。甘い物は今、ちょっと…」
思わず割れた破片を握りしめそうになって、は震える手のひらを広げた。みんくの心情を思いやって、の心臓は今にも破裂しそうだった。
―私のせいだ。私がケーキを作ろうなんて言ったから、モトハルくん、満腹になっちゃったんだ。どうしよう、どうしよう…。―
その時、凛としたみんくの声が、の耳に届いた。
「あの、そんなにこれ、甘くないんです！ お腹にも溜まりません！ 日保ちもします！ だから、今すぐ食べてくださいなんて言いませんから、今日の夜食…ううん、明日でも、明後日でも、ちょっとでもいいから食べてもらえませんか！？」
かすかに震えていたけれど、その声には勇気が満ちていた。みんくの決してくじけていない暖かい想いが、の内にも流れこんでくるようだった。の震えが止まった。
はカップの欠片を放り出し、洗い終えたばかりのカップとまだ中身が残っているコーヒーポットをひっつかんだ。秒速でコーヒーを温め直し、キッチンを飛び出す。
「モトハルくん！ 出かける前にコーヒーを１杯どう！？」
隣室から出て来ただけなのに、なぜか息を切らしているに、モトハルとみんくは目を丸くした。
「そのお菓子、きっとブラックコーヒーに合うと思うよ。一口でいいから、出かける前に食べてみたらどうかな？ ね、モトハルくん！」
期待と不安でいっぱいのの表情は、おそらくひどく滑稽だったのだろう。モトハルはプッと吹き出すと、みんくの手から紙袋、の手からコーヒーのなみなみ入ったカップを受け取った。
「サンキュ。もらうよ」
モトハルは袋を開けて、リボンを解いた。軽くて丸いマカロンを不思議そうな顔をしてつまみあげ、ひょいぱくっと口に入れる。もぐもぐと咀嚼した後、コーヒーをずずぅっとすすりこんだ。
「美味い！」
不審気な表情が特上スマイルに変わり、モトハルは何度も舌鼓を打った。
「本当だ。そんなに甘くない。子供の頃にオヤジにねだった夜店の綿菓子みたいな、懐かしい味がする」
がさがさがさ。更に包みを開けて、ひょいぱくっ、ずずぅっ、ひょいぱくっ、ずずぅっを繰り返す。袋の半分くらいを一気に空にしてから、ハッとモトハルは我に返った。
「いけね。仕事があるんだった。残りは仕事先で食べるよ。ありがとう、白石さん」
空になったコーヒーカップをに返し、大事そうにマカロンが入った袋をバッグに入れる。
「ごちそうさん！ 後はよろしく！」
とみんくに手を振ると、モトハルは走って事務所を出て行った。同時に、とみんくは床にへたりこんだ。
「…先輩、美味しいって言って、食べてくれた。よかったよかったよかった…∞」
みんくの瞳に涙が光っているのを見て、は思わずその背に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。みんくもの肩に手を回し返す。
「よく頑張ったね、みんくちゃん。えらい、えらい」
「…ちゃんのおかげだよ。ちゃんがコーヒーを持って来てくれたから…」
はみんくの言葉に首を横に振った。
「違うよ。みんくちゃんが頑張ったから、私も応援できたんだよ。…いつもそう。頑張っているみんくちゃんを見ていると、私も勇気と元気が沸いてくるの。それはみんくちゃんがどんな姿をしていたって同じだよ」
「…ちゃん、ありがとう」
みんくは呟き、手のひらで涙を拭いた。立ち上がって微笑む。
「…あたし、お仕事に行って来るね」
も自分の涙を拭うとうなずいた。
「うん。お仕事頑張ってね」
みんくは携帯を取りだし、宙に掲げた。
「“ＷＡＮＮＡ−ＢＥ” ＳＴＡＮＤ ＢＹっ …「起動」！！！」
携帯から電磁波が走り、そこに立っているのは涙のカケラもない、元気いっぱいのアイドルＭｉｎｋだった。
「よおっし！ 元気カンペキ！ 行って来ます！」
明るく手を振ると、次の瞬間、Ｍｉｎｋの姿はそこにはなかった。
続く
＜あとがき＞
なんか一気に書いてしまいました（宿題締め切り前の現実逃避とも言う（汗））
チョコレートケーキの作り方はよく分からなかったけど、カップケーキなら作れそうだったの（爆）
…ということで、１ホールのチョコレートケーキはカップケーキに化けたのでした（ちゃららん♪）
有香にゃん、原作の未来編ではほとんど出番がなくて、完結編には完全に姿がなかったんですけど、
本当にまだバード･ミュージックに在籍してるのかっ？？？…（汗）
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