【７・ＭＥＭＯＲＹ ＯＦ ＬＵＣＩＦＥＲ】
芽美の家は住宅街の中にある二階建ての一軒家だった。
「ただいま！」
を伴い、弾んだ足取りで玄関に駆けこむと、芽美は明るく叫んだ。
「パパ！ ママ！ 友達を連れて来たの！」
すると、キッチンらしき方面から、エプロンで手を拭きながら、はつらつとした印象の女性が現れた。
「お帰りなさい。珍しいじゃない、芽美が友達を連れて帰って来るなんて」
紹介されずとも、は一目で彼女が芽美の母親と分かった。母親の方がいくらか髪にカールがかかっている点を除けば、芽美そっくりだ。
「うん、ちょっと事情があって、ケガしちゃってるんだ。薬箱あるかな？ 手当てしてあげたいの」
は芽美の背後から、ていねいに頭を下げた。
「こんにちは。初めまして。と言います」
を見ると、芽美の母親は一瞬、瞳を丸くした。軽く首をひねると、さらりと髪が揺れる。
「…おかしいわね。…以前にどこかで会ったことがあるかしら…？」
意外な相手の言葉には「いいえ」と頭を横に振った。聖ポーリア学院では、が転入して以来、授業参観や保護者面談の類は開かれなかったし、芽美の母が教会のミサに来たという覚えもない。初対面だと断言できた。
芽美の母は不審げな顔つきをしていたが、すぐに笑顔を取り戻し、穏やかに挨拶した。
「きっと芽美から、あなたの話を良く聞いているせいね。芽美の母の映美です。娘がいつもお世話になっています」
二人のやりとりは気にせずに、さっさと靴を放り出して上がった芽美は、も家に上がるようにうながしながら、きょろきょろと辺りを見回した。
「ねえ、パパは？」
「パパは新しいマジックを思いついたから実験するんだって言って、部屋にこもっちゃったわよ」
「そうなの？ …ねえ、パパ！ パパってば！」
二階に父親の部屋があるのだろう。芽美は父を呼びながら、足取り軽く二階へと上がっていった。その様子は、パパっ子なのだろう、芽美の一面をうかがわせた。
おいてきぼりの形になったを、映美は居間に案内した。そして、再びキッチンに戻ると、今度は薬箱を取ってやって来た。
ハンカチをほどいて、傷口を消毒し、清潔なガーゼを当てて、包帯を巻く。映美の一連の動作は手際良く、はさして痛みを感じずに手当てをしてもらうことができた。
手当てが終わった頃、いつのまに済ませたのか、私服に着替えた芽美が二階から降りて来た。映美に首をすくめて、舌を出す。
「やっぱりダメみたい。パパったら、いくら呼んでも生返事で、部屋に入れてくれなかったよ」
「ああなっちゃうと、しばらくパパの部屋は立ち入り禁止ね」
よく似た顔をした母娘が、向かい合ってクスクス笑う様は、いかにも仲良さげで微笑ましかった。そして、芽美はの服を指差した。
「、服にも血がついちゃってるよ。それにずっと寒いところにいたから、もっと暖かい格好に着替えた方がいいよ。あたしの服を貸してあげる」
芽美の示したとおり、服の袖には流れた血の跡が残っていた。娘の言葉に映美も眉をひそめた。
「あら、本当。すぐに汚れを落としたほうがいいわね。うちで洗ってあげるわ」
は一旦は申し訳ないと断ったが、母娘共に譲らず、結局、二人の好意に甘えることになった。
の着替えのため、芽美の私室に通されると、机の上の籠からハリネズミがちょこんと顔を出して、「きゅうっ」と可愛らしく鳴いた。
「あれ？ 芽美、ハリネズミを飼ってるの！？」
「そうなの。ルビィって名前の女の子だよ」
芽美が籠から出すと、ハリネズミはおとなしくその手のひらに乗った。は横から覗きこみながら、恐る恐る尋ねた。
「…針は痛くないの？」
「普段は針を立てないから大丈夫。試しに触ってみて」
そうっとが手を伸ばして触れてみたが、芽美が言った通り、痛みはなかった。ルビィは素直に芽美の手からの手のひらに移り、くるんと丸くなった。
「…あのね、ルビィ、この子はちゃんって言うの。あたしのお友達だよ」
「きゅっ」
まるで芽美の言葉が分かっているような、愛らしい鳴き声に、ついも微笑んで挨拶した。
「初めまして。よろしくね、ルビィ」
「きゅきゅう」
思わずが「本当に可愛いね！」と言うと、嬉しげにルビィは手の上で踊った。
芽美は衣装ダンスから、可愛らしい雰囲気のブラウスとセーター、そしてスカートを選ぶと、ベッドの上に投げ出した。
「これなら、のサイズも合うと思う。着てみて」
その時、階下から芽美を呼ぶ、映美の声がした。
「芽美！ ところで、学校帰りにお願いしたお買い物はどうしたの？ 材料がないと、晩ご飯が作れないわよ〜？」
「あっ！ 忘れてた！」
途端に芽美の顔色が変わった。
「…買い物の途中で聖良に会って、のことを聞いたから、そのまま帰って来ちゃったんだ…」
芽美は慌てて、カバンを手に取った。
「ゴメン、。着替えをして、後はルビィやママとおしゃべりしてて！ あたし、お使いに行って来なくちゃ！」
芽美が出て行った後、が着替えをほぼ終えようとした時、部屋の扉がノックされて、映美が顔を出した。
「汚れた服を貸してもらえるかしら…？」
「あ、はい！」
肌身離さず身につけている十字架を、胸につけている最中だったは、急いで十字架をつけ、着替えたばかりの服を映美に差し出した。の胸に光る十字架に目を留めた瞬間、映美の表情が凍りついた。
「その十字架…！？ どうしてあなたがそれを持っているの！？」
の十字架は鎖も本体も全て純銀でできており、十字架全体に薔薇の精緻な模様が彫られていて、中央にはピンクダイアモンドがはめこまれているという、希少かつ高価なアンティークだった。だが、映美のひどい驚きようも、なぜ自分の十字架のことを知っているのかも、さっぱり分からず、はおどおどと告げた。
「もともとは祖母が身に着けていた物を、聖華市に越して来る前に譲ってもらったんです。学生には不似合いな高価な物なので、普段は目立たないように服の下につけているんですけれど…」
「あなたのお祖母様の物…？」
映美はしばらく逡巡していたが、やがて思い切ったようにに尋ねた。
「…もしかして、あなたは舞台女優のさんの孫娘なの？」
「はい」とうなずいたに、映美は「道理で、あなたの顔に見覚えがあるはずね」と息をついた。
「あたし、あなたのお祖母様にお会いしたことがあるのよ」
曖昧に相槌を打ちかけたは、次の映美の言葉に冷水を浴びせられたように震え上がった。
「今、世間を騒がせている怪盗の正体は、あなたなのね」
ごまかすことなど許されないほど、映美の口調はハッキリしていた。驚きと諦めの思いで、は尋ね返した。
「どうして、そんなことが分かるんですか？」
警戒心が伝わったのだろう。安心させるように、映美は微笑んだ。
「心配しないで、通報したりしないわ。これでも、あたしも昔は怪盗だったのよ。怪盗ルシファーと名乗っていたの」
の瞳が点になる。着替えたばかりの服がの手からバサバサと音を立てて落ちた。だが、の視線は映美に釘付けだった。
「あなたが怪盗ルシファー!?」
「そうよ。…まだあたしが怪盗ルシファーと名乗りだした新米の頃、あなたが今、身に着けているその十字架を盗むために、あなたのお祖母様に予告状を出したことがあるの。でも、盗めなかった。…さんの怪盗としての技術は、あたしよりうわてだったわ。その時、さんは、あたしと同じ怪盗だと知ったの。さん――先代の怪盗と呼んだほうがいいかしら――は、あたしから狙った獲物を奪わせなかった唯一の相手よ」
は勇気を振り絞って映美に告げた。
「…あたしは、ずっとあなたを探していました。あたしは…祖母の代わりにあなたに…怪盗ルシファーさんに、お返ししなくてはいけないものがあるんです」
二人はしばらくお互いに固まったまま動けなかったが、やがて映美がをうながした。
「芽美はしばらくお買い物から帰って来ないし、パパも部屋から出て来ないわ。お互い、話すことがたくさんあるみたいだし、洗濯もしなくちゃいけないしね。階下でお茶でも飲みながら、ゆっくりお話しましょう」
映美の誘いには素直にうなずいた。
「それと」と付け加えて、映美はパチンとウィンクした。
「あたしが怪盗だったことは、パパも芽美もちゃんと知ってるの。そのことに関して、気遣いはいらないわ。もちろん、あなたの秘密はパパにも芽美にもナイショにしておくからね」
☆★☆★☆
羽丘家の居間で、芽美の母と向かい合って紅茶を飲みながら、はずっと胸の奥に秘めていたことをゆっくりと話し出した。
の祖母は、女優であると同時に、怪盗でもあった。ところが１４年前に改心し、祖母はカトリックに帰依し、怪盗を辞める決意をした。だが、彼女はその時、自首せず、盗品をこっそり返していく道を選んだ。その理由のひとつは、まもなく生まれる予定だった孫を、その手で抱きたいという希望のためだった。
ところが、孫娘であるが生まれてすぐ、祖母は突然倒れた。昏睡状態から覚めた時、の身体には麻痺が残り、同時に過去の記憶をかなり失っていた。自分が怪盗の家柄であり、まもなく盗んだものを全て返して、その後で自首するつもりだったことも、全て忘れ去ってしまっていたのだ。
それから１４年。リハビリを重ねて、再び元気な体と、記憶のかなりの部分を取り戻したものの、もはや怪盗となるほどの超人的な運動能力を失ってしまった祖母の意志を、孫のが継ぐことになった。はかつて祖母が名乗った怪盗名『怪盗』を名乗り、家が先祖代々、盗んできた品物を返し始めた。祖母のが果たせなかった望みを、代わりに果たすために…。
だが、実はがすぐに自首しなかったのには、もうひとつ理由があった。しかし、一度記憶を失った祖母には、なかなかその理由が思い出せなかった。１４年かけてとぎれとぎれにが思い出したのは、自分が『怪盗ルシファー』という人物から、『ルシファーの人生を左右する大切な物』を盗んで隠したこと。ルシファーにそれを返さない限り、自首はできないということだけだった。
「…教えてください。祖母があなたから盗んだ物は一体なんですか？」
の問いかけに、映美は静かに答えた。
「あたしが怪盗をする時に使っていた黒い長手袋の片方よ。…警察に調べられたら、あたしの指紋やＤＮＡが分かってしまうでしょうね」
そして、映美はと対峙した時のことを語りだした。
映美が怪盗ルシファーと名乗って、怪盗を始めたばかりの頃、高名な舞台女優だったの持ち物の高価な十字架を狙って、予告状を出した。ところが、警察の警備をかいくぐり、予告どおりの場所を映美が訪れた時、そこにただ一人、十字架と共に待っていたのは、か弱い女優ではなく、優れた身体能力を持った、もう一人の怪盗―…先代の怪盗だった。
十字架を奪おうとする映美から、軽く体をかわし、が香水を吹きかけると、映美はたちまち床に崩れ落ち、身動きが取れなくなった。動けない映美から、するりと長手袋を奪い、は静かに告げた。
『あなたはまだ若い。まだ充分、やり直しがきくわ。…長年、ドロボウをやってきたわたくしは知っています。どんな理由があれ、盗みを繰り返して生きていくことは、空しく孤独なこと。…ドロボウなんてもう辞めなさい。あなたがドロボウを辞めるまで、この手袋はわたくしが預かるわ』
映美は何も盗むこともできず、片方の手袋を失ったまま、かろうじて動けるようになった体で、その場を逃げ出すことしかできなかった。
「…それで、映美さんはドロボウを辞めたんですか？」
「いいえ」
の質問に頭を横に振って、映美はくすっと笑った。
「あなたのお祖母さんのやり方は、意地っ張りのあたしには逆効果だったわ。かえって『怪盗なんかより、もっと盗みを上手くなってやる』って思っちゃったの。それからもあたしが盗みを辞めることはなかった。…あたしがドロボウを辞めて、盗んだ品物を全て返したのは、それから何年も後、パパに出会ってからの話よ」
「映美さんの手袋は必ずお返しします」
は懸命に言った。だが、次の言葉を告げるには、にはかなりの勇気が要った。
「…ただ、祖母の記憶が曖昧で、それがどこにあるか、まだ良く分からないんです」
１４年かけてが思い出したのは、怪盗ルシファーから盗んだ物は、自分が『盗みのために忍びこんだ場所のどこか』にある『天使の階段』の下に隠したということだけだった。
が危険を冒してまで、今まで怪盗として、ご先祖が盗んだ品物をひとつひとつ、直接、その家を訪ねて返していたのは、かつて先代の怪盗が立ち寄ったはずの場所を訪れ、『天使の階段』を探すためでもあったのだった。
「記憶がない間も、祖母はずっと怪盗ルシファーのことを気にしていました。大切な物を奪うなど、申し訳ないことをしてしまったと。だから、あたしが手袋のありかを必ず見つけて、お返しします。…そして、祖母に代わって、お詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした」
「ありがとう。…そして、どうぞ謝らないで」
映美は微笑んだ。
「…今になってみると、あの時、あなたのお祖母さんがあたしに伝えたかったことが、良く分かるの。だから、あなたのお祖母さんが、自分の正体を明かしてまで、あたしにドロボウを辞めるように忠告してくれたことには感謝しているわ。…お祖母さんに会ったら、どうぞ伝えてちょうだい。あたしはドロボウを辞めて、今は愛する家族に囲まれて、幸せに暮らしているって」
「はい。祖母もきっと喜ぶと思います」
ホッと息をついて、は大きくうなずいた。
「…祖母は『天使の階段』の下に盗んだ物を隠したと言っています。映美さんはこの言葉に、なにか心当たりはありませんか？」
の問いに映美は「残念だけど…」と頭を振った。
「あたしも、あちこちの街を渡り歩いて、いろんな場所に立ち寄ったり、盗んだりしたけれど、そんな場所は知らないし、そんな名前の物を盗んだこともないわ」
半ば予想していたことだったが、はその答えに「そうですか…」とガックリ肩を落とした。
二人がしばらく話を続けていたところ、やがて芽美が買い物から帰って来た。芽美の父の源一郎も夕食を食べに、二階の自室から降りて来て、羽丘家は賑やかになった。
は芽美達の勧めにより、その日は羽丘家で夕飯をご馳走になった。そして、あまり遅くならないうちに、洗濯物を受け取って、は羽丘家を辞した。
そのまま一人暮らしをしているマンションに帰っても構わなかったのだが、聖良に届けてもらった荷物が気になり、は一旦、礼拝堂へ帰ることにした。
☆★☆★☆
誰もいない、夜更けの礼拝堂。中央にある祭壇の前にそっと膝をつき、シスター姿のは静かに祈っていた。
偶然とは言え、この日、映美と話せたことはにとって、大きな前進となった。なんと言っても、ずっと祖母が気に病んでいた、盗んだ物を『返すべき相手』と『返すべき物』が分かったのだから。
だが、にはまだ、最後の難関である『返すべき物のありか』、すなわち『天使の階段』を探す試練が残されていた。
「主よ…」
十字架の前で深くうなだれるの心は千々に乱れていた。
今まではずっと、先代の怪盗が忍びこんだ場所を訪れながら、『天使の階段』を求めて探し続けて来た。そして、これまでに祖母が忍びこんだ場所で、が訪れていなかったのは、今回忍びこんだ“聖華市市役所”が最後であり、もう他に心当たりはないと言って良かった。
そして、今まで忍びこんだところ同様、聖華市市役所にも『天使の階段』と思われる場所や物は存在しなかった。
…果たして『天使の階段』はどこにあるのか、これまでに自分が忍びこんだ場所で見落とした点があったのだろうか。いや、そんなはずはない。いつだって『天使の階段』のことを念頭に置いて、わずかな手がかりをも見逃さないようにして、探して来たのだから。
「…主よ、あたしはこれから…どうしたら良いのでしょう…」
月光が礼拝堂のステンドグラスを通して、うずくまるの姿を深い色に染め、絶望にうちひしがれて動けないまま、はただ祈り続けた。
続く
＜あとがき＞
やっとハロウィンから脱出できました！（おいこら）ちょっと短いですが、キリがいいので、ここで一区切りさせていただきます。
いつもいつもお待たせして申し訳ございません。あと、今回、ちょっと説明調の内容ですいませんでした（平身低頭）。…次は飛鳥刑事が出せるといいなあ（希望）
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