Ｕｐ Ｓｉｄｅ Ｄｏｗｎ
飛鳥大貴、通称、アスカＪｒ．と羽丘芽美がつきあい始めたという噂が、聖ポーリア学院に流れた時、ショックを受けたのはクラスメートの高宮リナと佐渡真人だけではなかった。一年生の篠宮さやかもまた、アスカＪｒ．に恋している少女だったのである。
芽美と並んで朝の教室に向かう途中、少し困ったように、シスター見習いの深森聖良は頬に手を当てた。
「さやかちゃんがすっかり落ちこんでしまって、ここのところ毎日、放課後に礼拝堂にお祈りに来ては泣いているんです」
芽美は胸の辺りを片手でキュッと押さえて、うつむいた。
「さやかちゃんもアスカＪｒ．が好きだったものね」
「……新しい恋」
ぽそりと聖良が呟いた。
「アスカＪｒ．への失恋をふっきるためにも、新しい恋を、さやかちゃんも見つけるといいと思うのですけど」
二人の少女は顔を見あわせて、ため息をついた。
芽美と聖良がそろって二年Ａ組の教室に入り、友人たちに朝の挨拶をしていると、突然、大きな音と共に、教室の後ろのドアが開いた。ドアを開けたのは見慣れない、背の高い少年だった。すらりとした姿かたちに合った、アイドル系の整った顔立ちをしている。
「ちょ〜イケメンじゃん！ あんな子いたっけ？」
二人の友人であり、『Ｎｏｉｓｅな二人』とあだ名される、噂話シスターズの一人、涼子が、はしゃいだ声を上げる。
「一年生の転校生だよ。桜庭翔くんって名前で、警察本部長の孫息子なんだって」
涼子の相方の恭子が、すかさずデータを披露する。
教室の入口に立ったまま、翔は凛とした声で叫んだ。
「アスカＪｒ．という人はいますか！？」
ハンサムな転校生が、アスカＪｒ．に用事とあって、一斉にクラスメートの視線が戸口に集まる。自分の机に座っていたアスカＪｒ．がのそりと立ち上がり、ドアに向かって歩いて行った。
実際に並んで立つと、小柄なアスカＪｒ．より翔の方が頭ひとつ分、高い。妙な圧迫感を覚えながら、アスカＪｒ．は答えた。
「アスカＪｒ．はオレだが、何の用だ？」
アスカＪｒ．を真上から見下ろし、翔は鋭い声音で告げた。
「あなたが怪盗セイント・テールの専任捜査官ですね？ 僕はあなたに宣戦布告しに来ました。怪盗セイント・テールは僕が捕まえます！」
「なんだとぉー！？」
学年一の秀才だというのに、セイント・テールのこととなると、頭がいっぱいになってしまうアスカＪｒ．は、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「セイント・テールはオレが捕まえるんだ！」
ひらりと翔は一枚の紙を、アスカＪｒ．の前に差し出した。その紙には、でかでかとこう書かれていた。
『アスカくんへ 警察本部じきじきから要請があったため、桜庭翔くんを臨時に怪盗セイント・テール専任捜査官補佐に任命した。二人で協力して捜査に当たってくれたまえ。よろしく頼む。聖華市市長 森中秀雄』
「市長〜！」
思わずがくりと肩を落とすアスカＪｒ．に、翔は冷たく言い放った。
「僕はあなたに協力するつもりはありません。怪盗セイント・テールは警察の威信にかけて、どんな手段を使っても、必ず僕の手で捕まえてみせる。そのために、わざわざ聖華市に転入して来たんだ。……あんな卑劣なドロボウ、僕は決して許さない！」
「なんですってぇー！？」
これまた怪盗セイント・テールの悪口を言われると、頭がいっぱいになってしまう芽美が、戸口にすっ飛んで行った。
「ちょっとあなた！ セイント・テールのどこが卑劣だって言うのよ！？ いつも正々堂々と、困った人のために働いているじゃない！」
「困った人のために……ね。だが、セイント・テールによって、被害を受けた者だっている。例えば、僕は……セイント・テールに婚約者を奪われました」
絶句している芽美を見て、皮肉っぽく唇の片端を上げると、翔は再びアスカＪｒ．に向き直った。
「つきましては、今日の放課後、僕の教室へ来てください。協力しあうつもりはありませんが、こちらの邪魔をされても困りますから、今後の僕の捜査方針について、説明したいと思います」
「なんでオレが、わざわざお前の所へなんか行かなきゃならねーんだよ！？」
「怪盗セイント・テールは、常にあなたのところに予告状をよこす。あなたの周囲になんらかの情報網を張っていてもおかしくない。クラスメートだからといって安心はできません。……だから、僕の教室に来ていただきたいんです」
教室を眺め回す翔の疑いの眼差しに、芽美やクラスメートたちがたじろぐ。
翔は「じゃあ、よろしくお願いしますよ。アスカＪｒ．先輩」と言い置き、教室から出て行った。
たちまち教室中が、今のやり取りの話題でもちきりとなる。
芽美がしょんぼりと聖良のもとへ行くと、聖良はなにやら含みのある表情で考えこんでいた。その理由を芽美は尋ねようとしたが、今度は教室のもう一つのドアが開き、朝のホームルームを始めるべく、シスターが現れたので、慌てて自分の席に着くしかなかった。
放課後、アスカＪｒ．は芽美の席に立ち寄った。いつもなら芽美に「帰ろうぜ」と声をかけ、一緒に下校するのだが、今日のアスカＪｒ．の言葉は違った。
「羽丘、悪いけど、今日は先に帰ってくれ。今朝の一年生に会いに行かないといけねーからな」
「ううん。あたしも聖良と話があるから、かまわないよ。……あの子、警察本部長の孫なんだってね。頑張って」
「ああ。怪盗セイント・テールはオレが捕まえるんだ。あんなヤツに渡してたまるもんか！」
威勢よく啖呵を切って、アスカＪｒ．は教室を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、芽美はこっそりため息をついた。
そして、芽美はシスター姿の聖良と、聖ポーリア礼拝堂のあかずのざんげ室で、今日の出来事について語りあうことにした。
「警察から専任捜査官がもう一人来るなんて……」
うなだれている芽美に、聖良が思案げな様子で呟く。
「しかも、怪盗セイント・テールに個人的な恨みを抱いている方ですわ」
ガタッと芽美が身を乗り出す。
「婚約者を奪ったって言ってたけど、あたし、そんなことをした覚えはないよ！？」
「いいえ、一度だけありますわ。おそらく、翔くんは、篠宮さやかちゃんの婚約者だった方です」
「ええ！？ 花嫁のヴェールを、あたしが盗んで送り返した相手！？ でも、あれはさやかちゃん本人が破談を望んでいたし、さやかちゃんもヴェールを送り返したら、相手の方が怒って、婚約を断って来たって言ってたよね！？」
「つまり、翔くんの完全な逆恨みですわね。でも、セイント・テールが婚約の証のウェディングヴェールを送り返したことは事実ですから」
「さやかちゃんのために、いいことをしたつもりでいたけど、翔くんの心を傷つけたのだとしたら、可哀想なことをしちゃったね」
しょげ返った芽美の言葉に「でも、さやかちゃんが、あれでは気の毒でしたわ」と聖良が反論した。聖良は、さやかから相談を受けた時のことを、思い返すようにしながら語った。
「そもそも、あの縁談は、さやかちゃんの知らない所で、ご両親が勝手に決めたもの。さやかちゃんは、好きな人がいるのに、会ったこともない、知らない人と婚約だなんて、絶対に嫌だとおっしゃっていました。さやかちゃんの気持ちを確かめもせずに、一方的に婚約の証を贈りつけた相手が悪いですわ」
芽美は腕を組んで、考える素振りをしながら、呟いた。
「翔くんはどうして、会ったこともないさやかちゃんと婚約したのかな？」
「翔くんの気持ちを確かめてみる必要がありますわね。そうしたら、彼のセイント・テールに対する恨みが、どこから来るかもわかるでしょう」
二人は顔を見あわせて、うなずいた。
そんな風に二人がないしょ話をしている間、一年生の教室でアスカＪｒ．と翔は顔を突きあわせていた。翔は自分の机に座り、アスカＪｒ．は向きあう形で前の席の椅子に腰かけている。なにやらただならぬ二人の雰囲気に、翔のクラスメートたちは帰宅する様子もなく、興味津々でアスカＪｒ．と翔のやり取りを見守っていた。
「聖華市に転入して来るまでに、過去の怪盗セイント・テールの事件を全て調査しました」
片手に持った紙束をパラパラとめくりながら、翔はアスカＪｒ．に説明した。
「そのデータを分析した結果、怪盗セイント・テールを捕まえるための捜査方針を、こう決めました。まず、聖華市のどこかに用意周到な包囲網を引き、その中心にセイント・テールをおびき寄せます。そして現れた瞬間に、警察のプロジェクトチームにこのたび開発させた特殊なロケットランチャーから捕獲ネットを発射し、動きを封じこめた上で、即座に逮捕するのです。おびき寄せる方法は、偽物の予告状をあなたに送りつけることです」
「偽物の予告状だって！？」
「過去のデータから推測するに、怪盗セイント・テールは大変、プライドの高いドロボウです。偽物の予告状が送られたと聞けば、必ずその場所に現れて、予告状と同じ行動を取るでしょう」
ドカッと翔の机を叩いて、アスカＪｒ．は怒鳴った。
「そんな卑怯な手口は納得できないぞ！」
「納得していただかなくて結構。僕一人でセイント・テールを逮捕しても気になさらないのなら、アスカＪｒ．先輩に、予告状の場所に来てもらわなくてもかまいません」
痛い所を突かれた顔で、アスカＪｒ．は言い返した。
「行くさ。セイント・テールが現れる場所には、オレは必ず行く！ それで、おびき寄せる場所はどこにするんだ？」
そこで初めて、翔は困惑の面持ちを見せた。
「僕は転入して来たばかりで、聖華市に詳しくありません。予告状には、怪盗セイント・テールを囲いこむのにふさわしい、適当な大きさの建物と、セイント・テールが狙ってもおかしくない品物が必要です。アスカＪｒ．先輩、そのような場所と品物に心当たりはありませんか？」
アスカＪｒ．も真面目に考えこむ。
「市内の美術館か博物館に協力を要請することは可能だろうが、包囲網を敷くには、どこも広過ぎるし、ロケットランチャーなんかを持ちこんだら、貴重な展示物を傷つける恐れもあるから、申し出を断られるかもしれないな」
その時、ずっと二人の話に耳を傾けていた、翔のクラスメートの一人が、彼らに歩み寄った。
「あの、よかったら、わたしの家を使っていただけませんか？ 適当な広さの屋敷だと思いますし、町外れですから、他のお宅にご迷惑をおかけすることもありません。それに、怪盗に狙われてもおかしくない、代々伝わる家宝の宝石もあります」
ガタンッと椅子が転がるほど、翔が飛び上がった。うわずった声で、話しかけて来た少女の名を呼ぶ。
「……し、篠宮……さん……」
その顔は周囲にも明らかな程、真っ赤である。だが、鈍感キングとあだ名を取る程、他人の心の機微に疎いアスカＪｒ．は、翔の変化には全く気づかなかった。
「そうか。篠宮の屋敷なら、適度な大きさだし、宝石もあるなら、ちょうどいいな。オレも一度、張りこんだ経験があるし、警備網が敷きやすい」
「……しかし、篠宮さんや、篠宮さんの家の大事な宝を、危険な目に遭わせるわけには……！」
おろおろと言う翔に、さやかはキッパリと頭を横に振った。
「飛鳥先輩のお役に立てるなら、わたしはかまいません。いえ、ぜひ飛鳥先輩のお手伝いをさせてください！」
「ありがとう、篠宮。協力を頼むよ」
「はい！」
笑顔のアスカＪｒ．を、潤んだ瞳と組んだ両手で見つめるさやかに、赤かった翔の表情が、今度は青ざめていく。
「……で、では、篠宮邸と家宝の宝石をお借りするということでよろしいですね」
努めて、冷静さを装っていたが、その口調からは先程までの気迫は失われていた。
「予告状の日時はどうするんだ？」
「篠宮邸の見取り図を確認して、セイント・テールを逮捕するための警備の配置図を作り、警察に要請して警官隊を配備し、包囲網を敷く必要があります。準備に一週間いただきましょう。来週の土曜日の夜に予告状の日を設定します。偽物の予告状は、土曜日の朝に、誰にでもすぐわかる形で届くようにしますから、待っていてくださいね」
翔は「話は以上です」と言うと、紙束を自分のカバンにしまい、転がったままだった椅子を丁寧に机に戻した。
「では、僕は帰宅して、配置図作りに取りかかりますので、失礼します」
「じゃあ、オレも帰る。篠宮、またな」
アスカＪｒ．も自分のカバンを持って、立ち上がる。
意図したわけではないのだが、校門まで二人は並んで歩くことになった。その途中、翔がぼそりとアスカＪｒ．に尋ねた。
「アスカＪｒ．先輩は、好きな人はいますか？」
「え？」
きょとんとなったアスカＪｒ．だったが、次の瞬間、満面の笑みで肯定した。
「ああ、いるぜ。同じクラスの羽丘って言うんだ。つきあってる。それがどうした？」
「……そうですか。いえ、ちょっとお聞きしたかっただけです。気にしないでください」
校門に着くと、礼儀正しく翔はアスカＪｒ．に頭を下げた。
「では、土曜日に篠宮邸でお会いしましょう」
アスカＪｒ．は気づかなかったが、アスカＪｒ．と反対方向に去って行く翔は、明らかに落胆の様子を見せていた。
翔の計画は全て、翌日には芽美と聖良の耳に入っていた。芽美の正体を知らないアスカＪｒ．が、計画の全貌を芽美に話してしまったのだ。
「偽物の予告状を待つなんて、気に食わないわ」
ぶすっとして芽美が言うが、聖良は「裏をかいて、先に予告状を出してしまっては、セイント・テールが翔くんの立てた計画を、どこで知ったのかを疑われてしまいます。ここは我慢して、偽物の予告状が指示した日時に従うしかありませんわ。……でも、相手は厳重な包囲網を敷いて来るでしょう。捕獲ネットまで用意されているなんて。捕まらないように、充分に気をつけてくださいね」
いたずらっぽく芽美はウィンクした。
「平気よ！ 向こうがその気なら、あたしにも考えがあるの。任せて！」
その日の放課後、聖良は見習いシスターの務めとして、街の人たちの話を聞くべく、聖ポーリア礼拝堂で待機していた。すると、礼拝堂の扉を開いて、入って来る者がいた。相手の顔を見て、聖良は息を呑んだ。
「翔くん。桜庭翔くんですわね？」
「僕をご存知なんですか？」
「評判の転校生ですもの」
驚いて尋ねる翔に、聖良はニッコリと微笑んだ。少し恥ずかしそうに翔はうつむいた。
「ここの礼拝堂に来れば、シスターに悩みを聞いてもらえると伺って、来ました」
「どのようなお悩みですか？」
「……実は、恋の悩みなんです」
「わたしでよければ話してください。お力になれるかどうか、わかりませんが、話していただければ、少しはお気持ちも晴れるかもしれません」
聖良の包みこむような笑顔に促されて、ぽつりぽつりと翔は語り始めた。
「以前、ある人と婚約したことがあるんです。それは両親が勝手に決めた縁談で、僕は会ったこともない人でした。でも、渡されたお見合い写真を見て、なんて可愛らしい女性なんだろうと思って、僕は相手に会えるのを、とても楽しみにしていたんです。……でも、僕たちが直接、会う前に、我が家から贈った婚約の証がドロボウに盗まれて、僕の家に送り返されてしまいました。それは我が家に代々、伝わる大切な物だったので、両親はひどく怒って、縁談を断ってしまったんです。……でも、僕は今でも、その人のことが忘れられないんです」
「そのお相手というのは、篠宮さやかちゃんのことですね」
ズバリと言い当てられて、翔はギョッとなった。
「どうして、それを！？」
「実は、お二人の縁談が決まった時に、さやかちゃんからご相談を受けたことがあるんです」
聖良の言葉に、翔の顔が悲しそうに曇った。
「その時、篠宮さんは、『好きな人がいるのに、縁談が決まってしまって、困っている』と相談されたんじゃありませんか？」
今度は聖良が驚く番だった。
「さやかちゃんの気持ちを知ってるんですか？」
「聖ポーリア学院に転入して来て、気づきました。篠宮さんの態度を見ていれば、篠宮さんはアスカＪｒ．先輩が好きなんだって、すぐにわかります。……でも、アスカＪｒ．先輩には、おつきあいしている女性がいる。僕はもう、どうすればいいか、わからなくて……」
うなだれる翔の姿は、アスカＪｒ．や芽美に見せた、敵意に満ちた様子とは打って変わって、完全に恋の病に侵された少年だった。聖良は心をこめて、翔に語りかけた。
「元気を出してください。確かに、さやかちゃんは突然の婚約に戸惑っていましたし、縁談を断られて、ホッとされていました。でも、それは縁談の相手が、会ったこともない、知らない相手だったからです。翔くんは、せっかくさやかちゃんのいる、聖ポーリア学院に転入していらしたのですもの。さやかちゃんとお話する機会を増やして、さやかちゃんにご自分のことを知っていただいては、いかがですか？ 今は他の人が好きでも、翔くんを好きになってくださらないとも限りませんわ」
かあっと翔の顔が赤くなった。
「……は、話なんて……。篠宮さんは僕が元婚約者だとは知りませんし、僕は篠宮さんに近づくだけで、緊張してしまって……」
「そんなに緊張なさる必要はありませんわ。さやかちゃんは素直でいい子ですもの。きちんと話しかければ、必ず応えてくれます」
翔の手を取り、聖良は心をこめて言った。
「翔くんのさやかちゃんへの想いが真実なら、主はきっとお力を貸してくださいます。どうぞ頑張ってください」
翔の口元に初めて、ホッとしたような微笑みが浮かんだ。
「はい、シスター。頑張ってみます」
翔が礼拝堂を出ようとした時、ちょうど礼拝堂へ入ろうとする、さやかとすれ違った。下を向き、悲しそうな表情のさやかを見て取った翔は、思いきって声を張り上げた。
「し、篠宮さん！」
振り返ったさやかが戸惑った表情を見せる。
「あなたは……転校生の桜庭くん？」
「そうです。篠宮さんは礼拝堂へお参りですか？」
さやかは「ええ」とうなずいた。
「では、お祈りが終わった後、ご迷惑でなければ、一緒に帰りませんか？ 僕は聖華市に来たばかりなので、ついでに街を案内していただけると助かります」
暗い面持ちだったさやかの表情が、ほんの少し明るくなった。
「わたしでよかったら、今からご案内します」
「え？ お参りはいいんですか？」
驚いて尋ねる翔に、さやかは優しい瞳でうなずいた。
「ええ。……いくらお祈りしても、気分が沈むばかりで、なにか気晴らしがしたかったところなんです」
「それなら、ぜひお願いします」
礼儀正しく頭を下げる翔に、さやかは尋ねた。
「桜庭くんはアイスクリームはお好きですか？」
翔は素直にうなずいた。
「はい。大好きです」
「実は、学院の近くに、とても美味しいアイスクリーム屋さんがあるんです。人気があるから少し並びますけれど、ご一緒しましょう」
「それは楽しみです」
思いがけない展開に喜びの表情を隠しきれない翔と、翔の笑顔に釣られて微笑みを取り戻しているさやかを、聖良は礼拝堂の扉の陰から見送った。並んで帰る二人の姿は充分、可愛らしいカップルに見える。聖良はこっそり「……結構、お似合いかもしれませんわね、あの二人」と呟いた。
そして、土曜日の朝がやって来た。
「おはよう、パパ、ママ」
パジャマ姿と寝ぼけ眼で、二階の自分の部屋から、一階のダイニングに降りて来た芽美は、食卓についていた父親の源一郎に、笑顔で声をかけられた。
「おはよう、芽美。見てごらん。怪盗セイント・テールがまた予告状を出したみたいだよ」
「え！？ どこどこ！？」
芽美の前に差し出されたのは、地元新聞社の『聖華新聞』だった。源一郎が新聞を開くと、ポンッと弾ける音と共に、花吹雪が散ってハトが飛び回る。
「ほーら、新しいマジックだよ〜」
「もう、パパ！ あたしは真面目に聞いてるのに！」
頬を膨らませる芽美に「ごめんごめん」と大して悪びれた様子もなく、源一郎は謝った。
「でも、予告状の話は本当だよ」
源一郎が花吹雪を取り除くと、その下のページは新聞の広告欄になっていた。丸々、一面をぶち抜いて、次の言葉が巨大なカラー文字で書かれている。
『今夜 篠宮邸に 家宝の宝石をいただきにまいります Ｓｔ．Ｔａｉｌ』
「わあ！？ 派手な広告！」
翔の本気モードが伝わって来る、迫力のある予告状だった。
キッチンから母親の映美が、トーストとハムエッグとサラダの朝食を運んで来ながら、注意する。
「パパ、芽美、朝ご飯が出来たわよ。……パパったら、またマジックで辺りを散らかして！ ちゃんと片づけてね！ 芽美も早くパジャマを着替えて来なさい！」
父娘は顔を見あわせて、それぞれ「はあい」と答えた。
その夜、「留守番をお願いね」とルビィに呼びかけると、芽美は自室の窓から縄はしごを伝って、こっそり抜け出した。向かうのはいつもの礼拝堂である。
礼拝堂の扉をそっと開けると、既に祭壇の前では、シスター姿の聖良がひざまずいて祈っていた。
「芽美ちゃん、いらっしゃい」
立ち上がり振り返って微笑む聖良の隣に、芽美も並ぶ。芽美は祭壇に向かって祈りの文句を口ずさんだ。
「……主よ タネもしかけもないことをおゆるしください……」
芽美が勢いよくシルクハットを振り、「……ワン……ツー……スリー！」と叫ぶ。合図と同時に、色鮮やかな紙吹雪と紙テープが芽美を覆い隠すように舞い、次の瞬間、長いポニーテールにリボンをつけ、ステージ衣装をまとった怪盗セイント・テールが現れた。
セイント・テールと聖良は向きあって、両手を祈りの形に組んだ。
「……わたしたちに神のご加護がありますように……」
瞳を真っ直ぐに礼拝堂の扉に向けて、芽美が「さあ、お仕事よ！」と言葉を放つ。聖良が両手を組んだまま告げた。
「翔くんの想いがさやかちゃんに伝われば、翔くんもセイント・テールへの恨みをなくすでしょうし、さやかちゃんも元気を取り戻すでしょう。そのためにも、怪盗セイント・テールを捕まえようとする、翔くんの計画を潰さなければなりません。やってくれますか、セイント・テール？」
「大丈夫！ 神のご加護がある限り、怪盗セイント・テールに不可能はない！」
聖良に見送られて、セイント・テールは礼拝堂を元気よく飛び出して行った。
一方、篠宮邸では、一階の応接室の中央に大きな金庫が置かれ、家宝の宝石が中に入れられていた。金庫の傍にはアスカＪｒ．と翔、そして篠宮一家の姿がある。そして、応接室の入口と窓には見張りの警察官が立っていた。応接室だけではなく、篠宮邸内外の全ての出入り口には警官が立ち、ネズミ一匹たりとも出入りさせない構えだった。
「前回はあえて警備を少なくして、天井裏の真下の部屋で見張っていたため、セイント・テールに裏をかかれて、花嫁のヴェールを盗まれました。今回は屋敷の全ての部屋と出入り口に警官を配備し、万全を尽くす方針です」
そう語る翔の足元には、いつでも放てるように準備されたロケットランチャーがあった。
篠宮邸の庭の木の枝から、屋敷中に配備された警官隊を見ながら、芽美は「翔くんはやる気満々ね。でも、あたしだって負けないんだから」と、いたずらっぽく微笑した。
「イッツ ショーターイム！」
セイント・テールがシルクハットを振ると、見る見るうちに、大勢のセイント・テールのイリュージョンが現れ、次々に篠宮邸を駆け回った。
「セイント・テールが現れたぞ！？」
「こっちにもセイント・テールが……！？」
警官隊の混乱に満ちた悲鳴に、篠宮一家に動揺が走る。翔の顔にも不安がよぎった。しかし、アスカＪｒ．は彼らに冷静に告げた。
「あれはただのおとりだ。本物のセイント・テールは必ず、この応接室に現れる」
平然としているアスカＪｒ．の様子に、翔も落ち着きを取り戻し、うなずいた。
「そうでしたね。セイント・テールは間違いなく、宝石を狙って現れる。宝石をつかんだ瞬間に、ロケットランチャーを打ちこめばいい」
ふいにパンと音を立てて、外から応接室の窓が勝手に開いた。セイント・テールのイリュージョンが、どっと室内に駆けこんで来る。部屋にいた警官たちは慌てふためいて、イリュージョンを追ったが、アスカＪｒ．は立ち位置を変えることなく金庫をにらみつけ、翔もまたロケットランチャーを構えた。
「さあ、どっからでも来い！ セイント・テール！」
「絶対に逮捕してやる！」
「二人とも、おあいにくさま！ 家宝の宝石には興味ないわ！」
アスカＪｒ．と翔の叫びに呼応するかのように、長いポニーテールの少女が満月を背にひらりと窓辺に立ち、朗らかに告げた。
「あいつが本物だ！」
窓辺を振り返ったアスカＪｒ．が叫び、セイント・テールを捕まえるべく、イリュージョンを押しのけながら駆け出す。翔はロケットランチャーを窓に向けて構えたが、大勢のセイント・テールのイリュージョンが邪魔をして、照準が定まらない。翔は「くそっ！」と舌打ちして、ロケットランチャーを足元に投げ捨て、アスカＪｒ．の後を追った。
駆け寄って来るアスカＪｒ．と翔を物ともせず、悠々とセイント・テールは告げた。
「その代わり、篠宮家で一番大切なモノをいただいていくわね。偽物の予告状を送ってくれたお返しよ！ ……ワン、ツー、スリー！」
セイント・テールがシルクハットを差し出したかと思うと、両親の傍にいたさやかの体に、シルクハットから伸びて来た万国旗が巻きついた。さやかの体がふわりと宙に浮く。
「きゃあ！？」
悲鳴を上げるさやかを連れたまま、セイント・テールは、さっと窓から飛び立った。
「待て！ セイント・テール！ 篠宮を返せ！」
アスカＪｒ．がようやく辿り着いた窓を乗り越えようとした瞬間、その脇からものすごいスピードで窓を飛び越えた人物がいた。翔だった。
「さやかさんっ……！」
巨大な風船につかまり、足元には地面から数メートル離れた位置にさやかをぶら下げた状態で、セイント・テールはどんどん飛んで行く。その後を、翔は全力疾走で追った。
「さやかさん！ すぐに僕が助けますから！」
愛用の自転車に乗ったアスカＪｒ．が、背後から翔に追いつくと、「オレの後ろに乗れ！」と翔に叫んだ。だが、翔は頭を横に振った。
「いいえ！ あの風船のスピードに、二人乗りでは追いつけません。僕に自転車を貸してください！ お願いします！」
「お前、この状況で、そこまでして、一人で手柄を立てたいのかよ！？」
思わず、怒りをあらわにするアスカＪｒ．に、翔は「手柄なんて関係ない！」と言い返した。
「もうセイント・テールなんてどうでもいい！ 僕はただ、さやかさんを助けたいんだ！」
その真剣な顔つきになにを読み取ったのか、アスカＪｒ．は「わかった」と言って、自転車を降りた。
「篠宮を必ず助けろよ」
「はい！」
きっぱりとうなずくと、翔は自転車に乗りこんだ。全速力で自転車を漕ぎながら、宙を浮くさやかに向かって「さやかさん、怖がらないで！ 僕が今、助けます！」と叫び続ける。セイント・テールなど、既に眼中になく、ひたすらさやかへと呼びかける翔の姿に、思わずさやかは呟いていた。
「どうして？ どうして、桜庭くんはあんなに一生懸命なの？」
「それは翔くんに聞いたら、きっとわかるわ」
上空から笑いを含んだ少女の声がさやかの耳に届き、そして、セイント・テールは翔に向かって、声を張り上げた。
「翔くん、あなたの大切な宝物、確かにお返しするわ！」
次の瞬間、さやかと風船を結んでいた万国旗がプツリと切れ、さやかは落下した。
「さやかさんっ！？」
自転車から転がり落ちるように飛び降りて、翔はさやかを抱き止めた。セイント・テールがきちんと加減をしたのだろう。さやかの落ちるスピードは緩やかで、ふんわりと翔の腕の中に飛びこんだ。
半ば抱きあう形で、地面にうずくまる二人に向かって、セイント・テールは高らかに告げた。
「さやかちゃん、巻きこんでごめんね。翔くん、もう二度と、女の子にいきなりウェディングヴェールを送ったりしちゃダメよ」
そして、セイント・テールがつかんでいる風船は急速に高度を上げ、みるみるうちに夜空の彼方へ飛び去ってしまった。アスカＪｒ．が現場に辿り着いたのは、まさにその瞬間だった。
「畜生！ また逃げられた！ 覚えてろよ、セイント・テール！ 必ず捕まえてやるからな！」
負け犬の遠吠えをしているアスカＪｒ．には目もくれず、翔はさやかを助け起こして、尋ねていた。
「お怪我はありませんか！？ いきなり連れ去られて、怖かったでしょう。大丈夫ですか！？」
「平気です。大した高さじゃありませんでしたし、桜庭くんがすぐに追い駆けて来てくれたから、ちっとも怖くなかったです」
「よかった」
心から安堵の表情を見せる翔に、さやかが問いかけた。
「それより、怪盗さんが言っていた『ウェディングヴェール』って、どういう意味ですか？ もしかして、あなたが以前、花嫁のウェディングヴェールをわたしに贈って来た方ですか？」
翔は夜目にも明らかな程、顔を赤くして、うろたえた。
「……あれは両親が勝手に決めた縁談で、婚約の証のヴェールも両親が勝手に贈った物でした。……でも、僕はさやかさんのお見合い写真を見た時から、さやかさんに憧れていて、本当はさやかさんに会えることを、ずっと楽しみにしていたんです」
翔の告白に、さやかの顔も赤くなっていく。翔は思いきった様子で、さやかの両手を握り締めた。
「もう、いきなりウェディングヴェールを送りつけたりはさせません。……だけど、僕にもチャンスをもらえませんか？ 僕はさやかさんのことをもっと知りたいし、僕のこともさやかさんに知ってもらいたいんです」
「……はい。わたしも翔くんのことを、きちんと知りたいです」
おずおずと、だが、はっきり、さやかがうなずく。その答えに、翔は幸せそうな笑みを浮かべた。釣られて、さやかも温かい微笑みを見せる。
なんとなく二人の世界に入ってしまったさやかと翔を横目に、自転車を起き上がらせたアスカＪｒ．は、とぼとぼと帰路に着いたのだった。
三日後、翔は警察から配備されて来た警官隊を引き上げさせた上、怪盗セイント・テール専任捜査官補佐の任務を聖華市市長に返上し、聖ポーリア学院から転校していった。もともとセイント・テール逮捕を目的とした臨時の転入であり、目的が果たせなかった以上、長居するつもりはないようだった。
二年Ａ組の教室に別れの挨拶をしに来た翔は、「短い間でしたが、お世話になりました」とアスカＪｒ．に頭を下げた。
「今朝、礼拝堂にさやかちゃんが来て、教えてくれたんですが、さやかちゃんと翔くんは文通を始めることにしたんですって。さやかちゃんは見違えるように明るくなって、なんだかとても嬉しそうでしたわ」
こっそりささやく聖良に、芽美は「よかったね」と微笑んだ。初めて二年Ａ組を訪れた時は刺々しかった翔の表情も、すっかり穏やかになっている。
「さやかちゃんと翔くん、きっと上手くいくと思いますわ」
「何年か後には、また篠宮家に婚約の証のウェディングヴェールが贈られるかもね」
聖良と芽美はささやきあった。
その日の放課後、芽美とアスカＪｒ．は並んで、帰り道を歩いていた。ふと思い出したように、アスカＪｒ．が呟く。
「それにしても、今回の事件は全くわけがわからなかったぜ。セイント・テールのヤツ、篠宮を盗んで、桜庭を挑発するだけして、結局、篠宮を放り出して行ったりして、一体、なにがしたかったんだ？」
芽美はクスクス笑いながら答えた。
「セイント・テールはきっと、さやかちゃんと翔くんのハートを盗みたかったんだよ」
「はあと？ なんだ、そりゃ！？」
鈍感キングの称号は一生、治りそうもなかった。芽美はギュッとアスカＪｒ．の腕にしがみついて答えた。
「わからないまんまでいい！」
二人を照らす、風船のように丸い赤い夕陽だけが、全てを悟って微笑んでいるようだった。
＜終わり＞
＜あとがき＞
２００８年秋（立川の恵感謝祭５）に発行した『怪盗セイント・テール』同人誌「明日へと駆け出してゆこう」に掲載した作品です。
同人誌のほうが完売し、再販予定もありませんので、かなり個人的に気に入っている作品なので、サイトにアップさせていただきました。
さやかちゃんのその後は、ずっと書きたかった話でした。婚約者さんが実はアスカＪｒ．のライバルになるような探偵で、
さやかちゃんのことが好きだったりしたら、そして二人がくっついたら、面白いんじゃないかなと思って書きました。
同人誌を購入して下さった方、ありがとうございました。