３、風の香り
千石大学の今は亡き柳生博士の研究室で、羽柴当麻は鎧伝説に関する調べ物をしていた。
突然、パソコンの横に置かれた携帯が無機質な音を立てて、着信を告げた。表示された名前は誰よりも良く知っている少女の名前、『』。嫌な予感を覚えつつ、当麻は携帯を取り上げた。
「もしもし」
たっぷり三秒の沈黙の後、ためらいがちのの声が答える。
「………もしもし…当麻くん…？」
当麻は深く息をついて、単刀直入に尋ねた。
「今度は何をやらかしたんだ？」
再びの沈黙。そして、恐る恐るは白状した。
「……あの…迷子になったみたい…」
「はあ！？」
思わず声を上げてから、ここは大学の研究室なのだということを思い出し、声を低める。
「当麻くんに手作りのお弁当を届けたくて、バスに乗って、大学まで行く途中だったんだけど、あんまりいい天気だったから、大学のひとつ手前のバス停で降りたの」
「方向音痴の癖に、何を無茶をやってるんだ」
叱りつける口調に、はごにょごにょと言い訳した。
「だって、昨日まであんなに寒かったのに、今日はぽかぽかといい天気で、気持ち良かったから。せっかくの春を満喫したかったって言うか…その…」
「それで、ふらふら散歩気分で歩いているうちに、現在地が分からなくなったってわけだ」
「……うん」
「だからって、なんでオレに電話をかけてくるんだ？ 誰か通りすがりの人間に道くらい聞けるだろう。さもなきゃ手近な民家のインタフォンでも押してみろ」
「…いや…それが、通りすがりの人どころか、民家も全く見当たらないんですけど…」
「人も民家も見当たらない場所だと？ おまえ、一体どこにいるんだ？」
「…それが全く分からないから、当麻くんに電話したんだってば…」
の声が半泣きになる。当麻は頭を抱えた。
「分かった。とにかく落ち着け。バス停ひとつ程度で、大学からそんな遠くに歩いていけるはずがないんだ。なにか近くに目印になるようなものはないか。なんでもいいから、周りで目につく物を言ってみろ」
「え〜とね、…梅」
「梅？」
「とにかく周り中、どこを見渡しても、満開の梅の花が咲いた木でいっぱいなの。ひと山全部が梅園って感じ。どこもかしこも、甘くてすごくいい香りだよ。こういうの何て言うんだっけ。桃源郷…じゃないから、梅源郷？」
「阿呆」
間髪を入れないツッコミにはグッと詰まった。だが、懲りずに言葉を続ける。
「ほら、天空の矢って、当麻くんの目の代わりになるんでしょう？ あれで私の居場所を探したり…できるわけないよね…」
さすがに受話器の向こうの沈黙から、当麻の『ふざけたことを言うな』という怒りが伝わったらしく、語尾がしりすぼみになる。
やがて、当麻は深いため息をついた。
「『一生、迷ってろ』と言ってやりたいところだが、弁当を無駄にしたくはないからな。２０分で行く。そこを動くな」
「え？ どうやって私の居場所が分かるの！？」
「オレがＩＱ２５０の天才だってことを忘れたのか。どこにいようと、すぐに迎えに行ってやる」
「…うん」
それきり、電話は途絶えた。
☆★☆★☆
きっかり１８分５０秒後、当麻はの目の前に辿り着いていた。
「すごい、当麻くん！ 本当に居場所が分かったんだね！？ どうやったの？ …っていうか、ここどこ！？」
尊敬のまなざしを送るの頭を軽くこづく。
「まだ気づかないのか。ここは梅農家だ。…人も民家もない場所で、これだけ梅の木が生えている場所と言えば、梅の実の栽培農家以外ないだろう。インターネットで、大学近くの梅農家の地図を検索すれば、梅園の位置はすぐに特定できた」
「…で、でも、ひと山全部、梅の木なんだよ？」
樹々の間から自分を見つけ出せたのはなぜかと、首をかしげるに、当麻は片手に握った鎧球をちらりと見せた。
「少しだけ奥の手を使った。天空の鎧で梅園に微風を起こしたんだ。風が運んでくる梅の香りの中に、梅とは異なる香りがあった。その場所を真っ直ぐに目指せば、そこにがいたというわけだ」
「なるほど」と納得しつつも、は「それってまるで、私が臭いみたいじゃない」と頬を膨らませた。だが、少女の抗議など、当麻は全く意に介しはしなかった。
「くだらないことを言っていないで、早く大学へ戻るぞ。オレは研究を途中で放り出して来たんだからな」
そう言うと、当麻はの腕にあったお弁当入りのバスケットを奪い取った上、自分の首に巻いていた濃紺のマフラーをふぁさりと彼女の肩にかけた。
「いくら暖かいとは言え、この季節にいつまでも外をふらふら歩いていると風邪をひく。マフラーくらいしておけよ」
さっさと先に立って歩き出してしまう当麻の後を、は「ありがとう」とお礼を言うのもやっとで、慌てて追いかけた。
足早な少年の背を追うのに一生懸命で、は気づかなかった。当麻の頬がほんの少し赤くなっていたことを。
不器用かつ照れ屋な彼に言えるはずもない。
むせかえるような甘い梅の香の中で、たった一吹きの風が、愛しい少女のまとう、清楚なシャンプーの香りを運んで来たのだ、などとは。
＜終わり＞
＜あとがき＞
季節外れの話題で申し訳ありませんが、春になると、なんだか風までいい匂いがしてきて、わくわくして、お散歩したくなりませんか？
季節柄、金木犀の香りも好きだし、どっちにするか迷ったんですが、とりあえず金木犀の林（？）で迷子になる姿は想像つかなかったので、梅の香りにしておきました。私の書く当麻くんは好きな子に素直になれずに、意地悪するタイプらしい。
昔、梅農家の梅園に行ったことがあります。ひと山まるごと梅の木でした。本当にいい香りで幸せでした。
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