夏休みまでもうすぐという時期の夕暮れ時、は息せき切って、市立図書館のＡＶコーナーに駆けこんだ。閉館まで二時間と少しある。閲覧者用のＬＤを見終わるのに、ギリギリ間に合う時間だった。
昨夜、楽しみにしていたカンフーアクション映画が地上波初放映だったのに、見逃した上、録画にも失敗してしまったのだ。レンタルビデオ店でレンタルしても良いが、図書館なら無料で見ることができる。見逃した分、今日は絶対に図書館で見てやると、は勢いこんでいた。
並べられた棚から、目当てのＬＤを探すが、見当たらない。友人からの情報だと、確かに図書館で見かけたという話だったのに、何故だろうと焦りが募る。その時、探しているタイトル名がカウンターから聞こえた。司書がタイトルを復唱して「こちらでよろしいですね？」と誰かに尋ねたのだ。
そして、それに応える「はい。今から閲覧したいんで、お願いします」という男の声も。
「あー！？ 取られたっ！」
思わずカウンターを指差して、叫んでしまった。と同じことを考えた人物がいたらしい。
「へ？」
の大声にカウンター前から振り返ったのは、額に黄色のバンダナをはめた、紺色の髪の少年だった。その手にはの探していたＬＤがある。
「あーあ。出直しか」
思わずため息をつくと、がくっとは肩を落とした。のろのろとした足取りでＡＶコーナーから立ち去ろうとする。すると「ちょっと待ってくれよ」と、いきなり声をかけられた。
振り返ると、髪と同じ紺色の瞳でこちらを見つめながら、先ほどの少年が尋ねて来た。
「もしかして、あんたもこのＬＤを探しに来たのか？」
声に出す元気もなく、は無言でうなずいた。
「俺が観終わる頃には閉館時間だもんな。今日は俺の後に借りるってわけにもいかないか」
分かりきってることを言われて、はムッと唇を尖らせた。ところが相手はの思ってもいないことを言い出した。
「良かったら、今から俺と一緒に観ないか？ ここなら二人で観られるブースもあるだろ？」
「えっ！？」
は驚き、ためらった。確かに、この図書館のＡＶコーナーには、一人で見るブースと数人で見られるブースの双方が設けてある。も家族や友達と一緒に、同じＬＤを観るために利用した事があるから、それは良く知っている。だが、この見知らぬ初対面の少年と、いきなり狭いブースで一緒に映画を見るというのは、ためらわれた。
「嫌なら別にいいんだけどよ。どうせ今から流してもらうんだし、あんたもこの映画を観たいんだろ？」
問いかけてくる表情に邪気はなく、丸みを帯びた瞳には子犬のような人懐っこさと、こちらの警戒心を解かす愛嬌があった。
映画を観たいのと、その笑顔に何となく惹かれるものを覚えて、おずおずとはうなずいた。
「……じゃあ、私も一緒に見せてください」
手続きのため、カウンターで並んで名前を書くことになる。ちらりと隣を見て、相手の名前が『秀麗黄』と書かれていることに、は面食らった。
――この人、もしかして中国の人？ でも日本語ペラペラだったよね？
の視線に気付いたのだろう。少年は白い歯をこぼした。
「俺の名前、シュウ・レイファンって言うんだ。でも、華僑の子孫ってだけで、日本生まれの日本育ちだから、よろしくな」
明るく「俺のことは秀って呼んでくれ」と告げて、秀は司書の示したブースに先に立った。も自分の名前を慌てて名乗りながら、その後を追った。
最初のうち、は緊張して自分の荷物を抱えながら、出来る限り秀とは距離を取ってブースに座っていた。だが、互いにヘッドフォンをつけ、上映が開始されると、映画に夢中になって、いつの間にか緊張も忘れ去ってしまった。
めくるめく大河ストーリー、主人公達の切ない純愛、そして何より派手さと小技を併せもったカンフーアクション。
そして、は隣に座っている秀の反応が、自分と全く同じなことに気がついた。主人公が危険になれば、手に汗を握って応援し、切ないシーンには瞳が潤み、ギャグシーンには吹き出すのをこらえる。エンディングロールが流れ出す頃には、二人には同じ映画を楽しんだという共通の感覚が生まれていた。
ヘッドフォンを外しながら、秀が明るく言う。
「いや〜、面白かったな。俺、剣舞で敵を倒すシーン、感動しちまったぜ！」
「あたしも！ あの技はすごかったですよね！」
「あと、ビルからビルへ飛び移るシーンは迫力あったよな！？」
「そうそう！ ビルの俯瞰のカメラ目線だけで、くらくらしちゃうのに、あの高さから隣のビルに飛べちゃうのって、本当に格好良いですよね！」
「それにしても、ラストシーンは反則だよな！ 最後の最後で二人が別れちまうとは思わなかったぜ！」
「そうなんですよね！ ヒロインの手を振り切って、主人公が一人で旅立ってしまうところ。切ないエンディングテーマ曲と重なって、私、泣きそうでした」
ついブースに座ったまま、互いに熱く感想を語っているうちに、閉館五分前を告げる音楽が、館内を流れて来た。
は今度は素直に、秀に対して笑顔を向けることができた。
「一緒に見ようって言ってくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ、一緒でなんか楽しかったぜ」
そのまま頭を下げて、帰ってしまえば、秀との縁もこれ限りだと分かっていた。……だが、まだ映画の興奮が冷めやらないは、自分でも思ってもみないことを口走っていた。
「来週から、この主役の俳優の新作映画が封切りされるんですよね。良かったら、一緒に見に行きませんか？ 私の家族も友達も、カンフー映画とか好きじゃなくて、いつも一人で映画館に行ってるんです」
秀の瞳が一瞬、驚きに丸くなり、次に嬉しげにニッコリした。
「ああ、良いぜ。……ちなみには字幕派？ 吹き替え派？」
いきなり名前で呼ばれて、ドキリとする。だが、不思議と悪い気はしなかった。
「う〜ん。吹き替えも嫌いじゃないですけど、映画館で観る時は字幕派ですね」
「俺も。なんか俺ら、気が合いそうだな」
秀が続いて口にした映画館は、この近隣で一番大きな映画館だった。
「じゃあ、公開日初日の最初の公演時間に待ち合わせようぜ。チケットは俺が買っておくから。俺のおごりってことで」
「え！？ 誘ったのは私だし、ワリカンでいいですよ」
「構わねーよ。俺の友達もカンフー映画は観ねーから、誘ってもらって嬉しかったしさ」
ニカッと笑うと、秀は「じゃあ、またな」と言って、先にブースを出て行った。
公開初日、本当に秀が来ているのか、少し不安になりながら、は映画館へ出かけていった。だが、それは杞憂で、約束通り秀は館内の上映シアター入口で待っていた。
はまず、その格好に仰天した。秀の片手にＬサイズのドリンク、反対側にはやはりＬサイズのポップコーンが乗っていたのだった。
「それ……全部、一人で食べるんですか？」
小型のバケツくらいあるポップコーンの容器を見やる。秀は「もちろん」と胸を張った。
「大丈夫、うるさくしねーよ。これくらいの量なら、最初のＣＭのうちに食べ終えちまうから」
一瞬、言葉を失ったは「……よ、良く食べるんですね」と答えるに留めた。
「食い意地だけは人一倍……いや、三倍くらいあるんだ、俺」
その言葉通り、秀は最初の五分でドリンクとポップコーンを全て平らげ、映画本編が始まる頃にはどちらの容器も空になっていた。
新作映画は予想以上に面白く、は存分に楽しんだ。秀もそれは同様だったようで、エンディングロールが終わり、場内が明るくなると、伸びをして、「ああ〜、面白かった。腹減った」とぼやいた。
映画館の隣にハンバーガーショップがあったことを思い出したは、「ハンバーガーでも食べます？」と秀に問いかけた。
秀の顔がパッと輝いて、大きくうなずいた。そこで、はたと思い出したように秀は念を押した。
「……さっきのポップコーンで分かったと思うけど、俺、食い物に関しては底なしだから、驚かないでくれよな」
宣言通り、が普通のセットを一人前注文している隣で、秀は十五人前の注文を出した。向かい合って座り、が自分のハンバーガーを食べている間に、秀は目の前にどんどん空のハンバーガーの袋を積み上げていく。
テレビで見る大食らい王選手権並みの食べっぷりをリアルに見せられて、はあっけに取られた。だが、実に美味しそうに食べる秀の様子に不快感はなく、むしろ微笑ましく感じた。
十人前のハンバーガーを一気に食べ終えると少し満足したのか、秀はペースをいくらか落としてドリンクに手を伸ばした。そこで、向かいのが自分の分のポテトをマイペースに口に運んでいるのを見やって、頭をかいた。
「俺ばっかり食っちまって、ごめんな」
「いえ、本当に良く食べるんですね」
「……まあな」
うなずいた秀は、ふいに瞳をいたずらっぽく輝かせて言い出した。
「なあ、その敬語、いい加減、止めねー？ 俺ら、同い年くらいだろ？ 俺、高校一年。は？」
「あ、私も高一」
得たりとばかりに「だろ？ 堅苦しいのはよそうぜ」と秀が微笑む。それならばと勇気を出して、は尋ねた。
「あの……聞いてもいい？ 秀の家はどこ？」
「俺ん家は横浜中華街。実家は中華料理店なんだ」
秀は得意げに「俺、いつも家の手伝いでバイトやってっから、店に遊びに来てくれたらおごるぜ」と言った。
「わあ、行きたい！ 学校の友達を誘ってもいい？」
「友達も？ もちろん大歓迎だぜ」
の差し出したノートに、店の名前と住所、電話番号、そして簡単な地図を描いてくれた秀は、「絶対に来いよな」と陽だまりのように笑った。
それから、映画の感想など、他愛ない話で時間を費やした後、秀は「バイトの時間だから」と帰って行った。は秀の描いてくれたノートを手に、必ず近いうちに秀の店に行ってみようと決意していた。
次の日曜日、親友であると一緒に、は横浜中華街に遊びに出かけた。
秀が描いてくれた地図を頼りに、店を探して行くと、通りの向こうから元気な呼びこみが響いて来た。
「さあさあ、美味しい美味しい肉まん！ 甘い甘いあんまんもあるよ〜！」
聞き覚えのある声だと思い、真っ直ぐにそれを目指していくと、一軒の中華料理店の前に屋台が出ていて、額にバンダナを巻き、チャイナ風の服装にエプロンをした秀が声を張り上げていた。
「秀！」
が手を振ると、振り返った秀は嬉しそうな顔になった。
「、来てくれたんだな！」
がを秀に紹介すると、秀は店のほうを親指で差した。
「屋台の肉まんも美味くてお勧めなんだけどな。良かったら、ゆっくり店内で食べて行ってくれよ」
とはその勧めに従って、店内に入った。ちょうどおやつ時だったので、数点の点心と中国茶がセットになった飲茶セットを注文する。
茶壷をなみなみと注いだお湯で温め、薫りを楽しむための茶碗から飲むための茶碗へお茶を移し変えるという、独特の作法で、店員が中国茶を淹れてくれる。
とは、中国茶の深い薫りと味を楽しみながら、運ばれて来たエビギョーザやシュウマイを美味しくいただいた。そこへ秀が丸いせいろに入った点心を運んで来た。注文した覚えのない料理にとは困惑した。
「秀、これは？」
尋ねるに秀がウィンクする。
「うちに来てくれたら、おごるって約束しただろ。うちの店のとっておきのお勧め点心、カニみそ入りの小龍包だ。中の汁が熱々だから、気をつけて食べろよ」
は箸で小龍包をつまみ、ふうふう吹きながら、一口含んだ。飛び出して来る熱いスープに思わず「熱っ」と声が漏れるが、同時にとろけ出して来るカニみそとひき肉の味わいにうっとりとなる。思わず歓声が漏れた。
「熱い〜！ でも、美味しい〜！」
「だろ！？」
得意げに胸を張る秀を、他の客の応対をしていた紺色の長髪の少女が振り向き、にらんだ。
「おおにい！ 屋台はどうしたの？ 店の中でお客さんとおしゃべりなんかしてないでよね！」
「あ、悪い、リンフイ」
そう言って秀は、少女を「妹の鈴恵だ」と紹介した。
「どっちの人が、おおにいの彼女？」
瞳をパチパチさせる妹に秀は泡を食った。
「どっちもちげーよ！ ほら、この子が。この間、二人で映画を観に行った子なんだ」
「ああ、おおにいと映画の趣味が一緒な珍しい人ね。初めまして。おおにいがお世話になってます」
妹の皮肉にしかめ面を返すと、「じゃ、ゆっくりしてってくれよな」とたちに声をかけ、秀は店を出て行った。鈴恵も忙しそうに厨房へと戻って行く。
が店の出入り口を見やって、頬杖をついた。
「秀くんってなかなか男前だし、親切だし、モテそうだね。彼女とかいるのかな？」
その言葉にはドキッとして、思わず箸を取り落としそうになった。
「……考えたこともなかった。秀は何も言ってなかったし」
「フリーなら、私、彼女に立候補してみようかな〜。こんなに美味しい中華料理店の息子が彼氏って言うのも悪くないよね」
が何気なく言った瞬間、思わずは「ダメ！」と叫んでいた。途端に親友の表情がからかいのものに変わり、はしまったと感じた。
「さては、秀くんに惚れたな？ それなら立候補は止めて、の応援をするけど」
「好きとか分からないよ。まだ知り合って、そんなに経ってないし」
――でも、ちょっとイイかなって思いかけてる……かも？
心の中ではこっそり思った。
それから、夏休みに入り、と秀は時々、会うようになった。秀の店にが食べに行ったり、秀が休みの日に一緒に街に繰り出すこともあった。
互いに告白めいたものはなかったが、一緒にいて楽しいのは二人とも同じ気持ちのようで、友達以上恋人未満と表現するのがちょうど良かった。
「もうすぐ八月十五日だな〜」
八月に入ってから、秀は楽しみでたまらない様子で呟くようになった。なんでも、秀にとって大切な友人の誕生日らしい。新宿ＮＳビルの一室を借り切って、親しい仲間同士でパーティを開く予定なのだと、秀は言っていた。
「内輪の集まりだから、今回はちょっとは呼べねーけど、後で写真とか見せるから」
「うん。楽しみにしてる」
その会話を最後に秀は消息を絶った。
八月十五日から一週間が経っても秀から連絡がない。それまで一週間以上、連絡が取れないことがなかったので、心配になったは秀の実家に出向いた。
屋台で売り子をしているのは秀とは違う店員で、店内に入っても秀の姿はなかった。厨房にいるのかと思い、は思い切って、注文を取りに来た店員に尋ねた。
「すみません。私、秀麗黄さんの友人で、麗黄さんにお会いしたいのですが、いらっしゃいますか？」
店員は困り顔になった。
「秀麗黄でしたら、ただいま長期休暇を取っておりますが」
「長期休暇？ でも、休むなんて話、聞いてなかったのに……」
嫌な予感を覚えてが唇を噛むと、店員は「少々お待ちください」と頭を下げた。下がった店員と入れ替わりに現れたのは鈴恵だった。
「おおにいのお友達ですね。いらっしゃいませ」
一礼する鈴恵には尋ねた。
「秀が……あなたのお兄さんが長期休暇を取っているって本当ですか？ どこへ行かれたんですか？」
鈴恵の表情が見るからに曇る。
「実は、兄は今、ニューヨークにいます。兄のお友達が旅行先で行方不明になったそうで、他のお友達と探しに出かけているんです」
「秀のお友達が……！？」
鈴恵も兄とその友人の身を案じているようだった。だが、そんな気持ちをに見せまいとするように懸命に微笑んでみせた。
「でも、兄と連絡なら取れます。母方の叔父がチャイナタウンでお店を開いていて、そこで兄達はお世話になっているんです。お急ぎでしたら、叔父の店の電話番号をお教えします」
は少し考えてから、うなずいた。
「はい、お願いします」
急用があるわけではなかったが、胸の奥のもやもやが消えなくて、少しでも秀の居場所の手がかりが欲しかった。
帰宅して、テレビのニュースを見たは、気がかりがますます大きくなるのを感じた。ニュースでは、この一週間、ニューヨークで謎のテロ事件が続発しているという話題が、大きく報じられていた。
ニューヨークと日本の時差はサマータイムを含めて十三時間。はニューヨークが朝になる時間を待って、鈴恵に教えられた電話番号にかけてみた。
「英語なんて話せないけど、大丈夫かな。それとも中国語？ 同じ中国語でも、北京語とか、広東語とかあるんだよね、確か」
はたして言葉が通じるのか、びくつきながら、発信音に耳を澄ます。
受話器が取られて、男性の声が「ハロー」と答えた。
は「キャン ユー スピーク ジャパニーズ？」と発音もたどたどしく尋ね返した。すると、ホッとしたことに男性の言葉が変わった。
「陳さん、少し日本語しゃべれるのことよ。あなたは日本人あるか？」
独特のなまりはあるが、確かな日本語だ。嬉しい気持ちでいっぱいになって、は「はい」と答えた。
「私は秀麗黄さんの友達で、と言います。麗黄さんはいらっしゃいますか？ ちょっと話をしたいんですが」
「ああ、麗黄の友達ね。私、麗黄の叔父あるよ。麗黄は今、ここにいないね。友達と出かけてるよ。いつ帰って来るか、陳さんは分からない。ごめんなさいあるよ」
「そうなんですか。あの……麗黄さんはお元気ですか？」
「麗黄はとても元気あるよ。大丈夫。陳さんが預かってるからね。心配ないよ」
「じゃあ、麗黄さんにから電話があったと伝えてください。よろしくお願いします」
「さんね。麗黄が帰って来たら、確かに伝えるよ」
調子良く話していた陳さんの声が、ふと途切れた。かすかに受話器の向こうから聞こえて来るのは、複数の女性の甲高い悲鳴だった。陳さんが早口に言った。
「店で何かあったあるよ。陳さん、見て来る。後で麗黄から電話させるよ」
ガチャと鈍い音がして、電話が切れた。それから、時間をおいて何度もは電話をかけたが、電話は不通のままだった。
――店で何かあったって、どういうことだろう。女の人の悲鳴が聞こえたけど、テロと関係あるのかな。陳さんはどうしちゃったんだろう。秀は無事なのかな。
頭の中がぐるぐるする。ただひたすら、秀の無事を祈ることしかにはできなかった。
それから、不安でいっぱいな毎日をは過ごした。考えるのは秀のことばかりだった。
――もし、このまま秀と会えなくなったら……。
そう思うだけで、胸がズキズキする。は自分が秀を本気で好きになり始めていることに気付いた。
陳さんの店のことを鈴恵に尋ねようかとも思ったが、かえって心配をかけるかもしれないと考えると、それもできなかった。
――陳さん、言ったよね。秀に電話させるって。秀、私、待ってるから。電話して。お願い。
夏休みだと言うのに、毎日、朝から晩まで、電話の傍に辛抱強く張りついているに、両親も不審がっていたが、にできることは、もうそれしかなかった。
そして一週間が過ぎ、半ば機械的に、かかって来た電話を受けるようになって来た頃、夜の十一時過ぎに電話のベルが鳴った。電話によりかかって、うとうとしていたは受話器を取った。
「もしもし」
「もしもし、か？」
一番、聞きたかった声に眠気が吹き飛び、は「秀！？」と声を上げた。
「うん、俺。叔父貴からが俺あてに電話をくれてたって、さっき聞いたんだ。ちょっとバタバタしててさ。叔父貴ともずっと連絡が取れなくて、電話するのが遅くなってごめんな」
秀の声は優しかったが、疲れがにじみ出ていて、いつもの張りは全くなかった。
「妹さんからお友達が行方不明だって聞いたけど、お友達は見つかったの？」
「ああ、見つかった。なんとか……助け出せた」
「叔父様は元気？ 電話した時、ちょっとお店の様子がおかしかったんだけど」
「叔父貴はちょっとケガした程度で、元気だよ。店も普通に営業してる。……心配してくれてありがとな」
秀の口調から、その声に張りがないのは疲れのせいだけではないと、直感的には悟った。ゆっくりと問いかける。
「もしかして、そっちで、なにか辛いことがあった？」
電話口で秀が言葉を探しているのを感じる。そして、苦しげに秀は声を絞り出した。
「友達は助けられたんだけど、こっちで友達になったルナって女の子が、俺達に巻きこまれて……」
濁したセリフの続きは聞けなかった。電話口が静まり返る。
声には出さなくても、秀が心から悲しんでいるのをは感じた。どんな慰めの言葉も今の秀には届きそうもなかった。
が言えたのは一言だけだった。
「私、待ってるから。秀が帰って来るのを、ずっと待ってる」
長い沈黙の後、秀はぽつりと「ありがとな」と漏らした。
「じゃあ、この辺で切るわ。またな、」
「うん、またね」
電話が切られた後も、まだ秀の気配が残っているようで、しばらくは受話器の向こうに耳を澄ませていた。
更に一週間が過ぎた後、再び秀から電話があった。昼過ぎの電話口はざわざわしていて、秀の声は前回より元気になっていた。
「今、成田に着いたところ。……あのさ、今日、暇？ これから会えないか？」
「今日？ 一応、暇だけど。どこに行けばいいの？」
突然の秀の誘いに、は瞳をパチクリさせた。
「俺、荷物だけ、一旦、家に放りこんで来るからさ。夕方、初めて会った図書館前で待ち合わせようぜ」
何気ない口ぶりだったが、断れない切実さがどこか感じられて、は「いいよ」とうなずいた。
約束の時間に図書館へ行くと、入り口に秀が立っていた。
「秀！」
手を振ると、秀も軽く手を上げた。
「お帰りなさい」
駆け寄って告げると、少し瞳を瞬いてから、秀は「ただいま」と照れたように微笑んだ。
「少し痩せたんじゃねーの？」
秀が心配そうにの顔を覗きこむ。
「秀こそ」
秀の頬には、緊張を強いられる日々を送ったことが想像される、鋭さが宿っていた。
秀は何か言いかけてくちごもった後、「ちょっと歩こうぜ」と顎をしゃくり、図書館の庭に向けて、ぶらぶらと歩き始めた。
並んで歩きながら、は秀が自分に何か大切な話をするために、ここに呼び出したのだということ、それは彼がニューヨークに行っていたことと関係することだと感じていた。
だが、秀の口は重く、なかなか開かない。おしゃべりでムードメーカーな彼には珍しいことだった。
は思い切って、自分から口を開いた。
「……なにか、私に話があるんじゃないの？」
秀はゆっくりと立ち止まった。ぎこちなくを見た後、深々と頭を下げる。
「俺、今日でにさよならを言いに来た。……もう俺からは連絡しない。店にも来ないで欲しいんだ」
は胸が刃物でめった刺しにされたような鋭い痛みを覚えた。目の奥にじんと熱いものがこみ上げて来るのを感じながら、は尋ねた。
「どうして？ 私のこと、嫌いになったの？」
「違う！」
悲痛な声音で叫ぶと、秀は両手の拳をぎゅっと握りしめた。
「……俺、怖いんだ。俺のせいでになんかあったら、自分が絶対許せねー。だから、はもう俺なんかと関わらないほうがいい」
電話口での秀の苦しげな声を、は思い出していた。
『こっちで友達になったルナって女の子が、俺達に巻きこまれて……』
「ごめん。……さよなら、」
そっぽを向くと、秀はに背を向けて、歩き出した。
その様子に、ふいにの脳裏に、秀と二人で見たＬＤの映像がフラッシュバックした。
ヒロインが『どうしても行ってしまうの？』と問いかけると、ヒーローは悲しげにうなずいた。
『君と僕は住む世界が違うんだ。君はどうか他の男と幸せになってくれ』
そして、涙ぐむヒロインを一度も振り返らず、エンディングテーマと共に、ヒーローは一人、立ち去ってしまう。
旅立つヒーローの背中がなぜか、秀に重なった。
――秀が行ってしまう。もう二度と会えない。
そう思った瞬間、は駈け出していた。
「嫌！」
秀の背中に抱きついて、ぎゅっと両腕に力をこめる。
「秀と離れたくない。私は秀のことが好き」
背中越しに秀の体温が伝わって来る。逃れようと思えば、の腕くらい簡単に外せるはずだったが、秀は動かなかった。
「私は映画のヒロインじゃないよ。目の前から好きな人が去っていくのを、ただ見送るだけなんて嫌。……どんな危険な目に遭うことよりも、秀に会えなくなることのほうが辛いの」
「……」
秀は前に回したの手にそっと触れた。引き離されるのかと思い、はビクリとしたが、秀はその代わりにの手を強く握りしめた。
「やっぱり俺、ダメだ。情けねーけど、のこと、離したくねーや」
そして、秀は言葉を続けた。
「さっき、『お帰りなさい』って言ってくれただろ？ あん時に思っちまったんだ。俺、のところに帰って来れて良かったって。が待っててくれて、本当に嬉しかったんだ」
つないだ手に力をこめて、はささやいた。
「いつだって、私は秀のことを想って、待ってるよ」
ゆっくりとに向き直り、秀がまっすぐにを見つけた。
「俺もが好きだ。……この先、何があるか分からねーけど、さえ良ければ、俺と付き合って欲しい」
秀の瞳を見つめ返しながら、は涙ぐみながら、無言で何度もうなずいた。
厳しかった夏の終わりを思わせる涼風が、二人の間を優しく吹き抜けて行った。
＜終＞
＜あとがき＞
人気のない（汗）秀夢が一番にできてしまってすみませんm(_ _)m
でも、秀が個人的には一番、書きやすいです。
食いしん坊でおっちょこちょいなところが神無月と似ているからでしょうか（笑）
今回の話はトルーパーのＯＶＡの外伝、ニューヨーク編とつながっています。
外伝をご存じない方ごめんなさい。
話自体はほとんど出来上がっていたのですが、体調を崩して、
完成が大幅に遅れてしまいました。この先の創作がどうなるかは、体調次第ですが、
休み休みやっていきますので、よろしくお願いします。