１０、春の気配
その日は十二月二十四日。クリスマスイブ当日、早朝のガソリンスタンドは、ひどく寒かった。
吹きさらしの風の中、石油会社のマークが入った、つなぎ姿の は、屋根の向こうの鈍色の空を恨めしげに見上げた。少しでも温まろうと足踏みしながら、「雪でも降るのかな。……うわあ、最悪」と毒づく。恋人達にとってはロマンティックなホワイトクリスマスも、外仕事の人間にはただ寒くて迷惑なだけだ。
高校二年生の が、ガソリンスタンドのアルバイトを勤めて、二年近くになる。世に言う３Ｋ、「きつい」「汚い」「給料安い」のバイトの代表格ではないかと、密かに思いながらも辞められないのは、身内が経営している店だから。よくある話である。
高校に入学した時、店長である伯父じきじきに「若い子はなかなかバイトに来てくれなくてさ。頼むよ、 ちゃん」と頼まれ、 家の財布を握る母親からは、「どうせ帰宅部で、暇なんでしょ。お小遣いくらい、自分で稼ぎなさい。これもいい社会勉強よ」と口添えされては、断る術もなかった。
夏は暑いし、冬は寒いし、手は汚れて荒れ放題だし、という最悪の環境ながら、それでも二年近く勤め上げて、それなりにスキルを上げた実感を得ているところだった。
その時、一台の乗用車がガソリンを入れる定位置に滑りこんで来た。途端に不機嫌な表情を押し隠し、急いで運転席側に向かう。開いた窓に向かって、 はニッコリ営業スマイルで尋ねた。
「いらっしゃいませ！ レギュラーですか？ ハイオクですか？ 満タンでよろしいですか？」
ピカピカに洗車された高級車の運転席には若い男性が、助手席には綺麗な女性が着飾って座っている。これからデートだろうことは容易に推測できる。 は運転席の男性から受けた注文を繰り返した。
「ハイオク、現金、満タンですね。ありがとうございます！」
給油口にノズルを差し込み、ガソリンが入り始めたところで、再び運転席に向かって走り戻る。
「灰皿、ゴミなどはよろしかったでしょうか？ 窓はお拭きしてよろしいですか？」
差し出される灰皿を清掃し、かじかんだ両手で冷たい雑巾をつかんで、車の窓を拭いていく。閉じた窓の内側、暖かそうな車内ではカップルが楽しげに談笑していて、 は素直に羨ましく感じた。
ガソリンタンクが満タンになると、自動的にノズルが止まる。 はノズルを元の位置に返して、給油口のキャップを閉め、閉じた。再び運転席に走り、レシートを片手に挨拶する。
「ありがとうございます！ ５３６０円になります！」
代金をもらって、お釣りを返せば、一連の作業は終わり。
「ありがとうございました！ お気をつけて！」
頭を下げて、乗用車が道路に出て行くのを見送ったところで、頬に冷たい物が当たった。ついに雪が降り出したのだった。
その時、腹をえぐるようなバイクの低音が響き、見覚えのある一台の真紅のバイクが入って来た。
「いらっしゃいませ！」
ドキッとして、慌てて はバイクの元へ駆けつけた。
バイクの乗り手は停車位置に駐車すると、シートから降りてヘルメットを外した。ヘルメットから長めの黒髪がバサリとこぼれる。だが、蒼い瞳に似合う凛々しい顔立ちと、ライダースーツに包まれたすらりとした体は、明らかに少年のものだ。
に向き合うと、蒼い瞳の少年は穏やかに告げた。
「おはよう、 。レギュラーを満タンでお願いします」
の名前を知っている少年の名は、真田遼。週に一度は店に現れる常連客であり、同時に のクラスメートでもあった。趣味はトレッキングだという話で、去年、十六才になったと同時に中型バイクの免許を取得して、以来、あちこちの山を制覇して回っているらしい。
「真田くんは朝から元気だね。今週はどこへ遊びに行くの？ 冬山登山？」
バイクの給油口にノズルを突っこみながら尋ねる。
「いや、今度は山じゃないんだ。知り合いが小田原に住んでいるんだけど、週末に友達が皆、集まってパーティするって言うから、泊りがけで遊びに行こうと思って」
「友達とクリスマスパーティなの？ いいなあ。私は年末までずっとバイトだよ」
の大きな吐息は、冷えた空気によって白く変わり、辺りに散った。遼は の言葉に明るく笑った。
「でも、 も朝から笑顔で走り回っていて、元気だよな」
「そりゃもー、客商売ですから。しけた顔してらんないもん。スマイルは０円だよ！」
どこぞのハンバーガーショップの店員のようなことを言うと、遼は何気ない仕草で の頭をポンと軽く叩いた。
「オレ、ここでガソリンを入れて出発すると、 からパワーを分けてもらってるみたいな気がして、いつも元気が出るんだ」
そんなことを言われたのは初めてで、思わずどぎまぎして、手元が狂いそうになる。気を引き締めると、 は給油口からノズルを外し、給油口を閉めた。
「ありがとうございました！ ６８５円になります！」
遼は手袋を外して、腰につけたサイドバッグから財布を出した。千円札を手渡された は、レジまで走って釣り銭を取りに行き、遼の手にそっと渡した。一瞬、触れた手が暖かくて、ドキリとする。遼はニッコリ笑って、再び手袋をはめ、ヘルメットをかぶった。
「ありがとう、 。じゃあ、メリークリスマス！」
「メリークリスマス！ あ、それと、雪が降って来てるから、気をつけて、行ってらっしゃい！」
思わず叫ぶと、軽く手をあげて返し、遼はエンジン音を響かせて、店を出て行った。
なんとなくその背中を見送っていると、同じアルバイトの が声をかけてきた。
「今のバイク、常連のお客さんですよね。 さんの彼氏ですか？」
「まさか」
思わず苦笑してしまう。
「彼氏がいたら、クリスマスイブにバイトなんかしてないよ。真田くんはただのクラスメート」
「なーんだ。でも、彼、ハンサムですよね。彼女はいないのかなあ？」
「まあね。うちのクラスの女子にもかなりモテてるけど、彼女はいないみたいだよ。うちの店に来るのも、いつも一人だしね」
気のない返事をしながら、胸の内を隠した。本当は も同じクラスの女子同様に、遼にほのかな恋心を抱いていた。いつか遼が「後ろに乗って、一緒に出かけないか？」と声をかけてくれることを、ちょっぴり夢見てもいる。
だが、それは所詮、叶わぬ望みだと、 自身、身に沁みて分かっていた。所詮、 は店員で、遼はお客。油で汚れたスタンドの制服姿で、遼のピカピカのライダースーツの後ろに乗れるわけがない。
その時、新たな車が入って来て、二人は会話を打ち切った。クリスマスから年末にかけては、ガソリンスタンドにとって一年で一番の稼ぎ時。店内に入って温まるどころか、外で立ち話に興じる暇もありはしないのだ。遼へのほのかな想いもそっちのけで、 は仕事に専念した。
正月も松の内も明けて、一月も半ば過ぎ、 は相変わらず、バイトに励んでいた。
「いらっしゃいませ〜！」
大きな声を上げながら、スタンド内で働いていると、いつも通り、真紅のバイクが入って来た。そっちに向かって走ろうとして、 はドキリとして、つい立ち止まってしまった。バイクから降りた遼の後ろに、ロングスカートの少女が一人、乗っていたのだった。
遼が女性を背後に乗せて、ガソリンスタンドに来たのは初めてのことだ。一体、少女は何者なのかといぶかりながら、バイクに近づく。
「いらっしゃいませ」
が声をかけると、遼は穏やかな口調で言った。
「レギュラーを満タンでお願いします」
「はい。レギュラー満タンですね。かしこまりました」
がガソリンを入れている間、少女は遼の手を借りて、バイクから身軽に降り、ヘルメットを外した。長い黒髪と透けるような肌、釣りあがり気味の瞳が印象的な、美しい少女だった。
二年もガソリンスタンドに勤めれば、常連と一見の客の区別くらいはつく。第一、自分の高校のみならず、この近辺で、こんな美しい少女を見かけるのは初めてだった。
「うちの学校の生徒じゃないよね？ 真田くんのお友達？」
が尋ねると、遼はうなずいた。
「普段は遠くに住んでいるんだけど、しばらくこっちに滞在するから、この辺を案内して欲しいって頼まれたんだ」
「わたくしの名は迦遊羅と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
澄んだ声で品良く挨拶されて、 はぎこちなく頭を下げた。
「私は真田くんのクラスメートの です。こちらこそ、よろしくお願いします」
それから遼は、たびたび迦遊羅を後ろに乗せて、ガソリンスタンドに現れるようになった。バイクであちこちを案内しているらしく、ガソリンの減りが早いのだ。 のクラスでも、女子に人気のある真田遼が、見たこともない美少女と毎日、デートしていると評判になっていた。
遼と迦遊羅は昔ながらの知己らしく、二人でガソリンスタンドに現れる時は、いつも楽しげに会話していた。遼と迦遊羅が現れる回数が増えるにつれ、 は笑顔が少なくなっていった。そのうち、よほど忙しい時以外は、遼のバイクの給油は他のアルバイトに任せるようになった。
「あの赤いバイクの常連さんが綺麗な女の子を連れて来るようになってから、 さん、なんだか元気がなくなりましたね」
バイト仲間の に指摘されて、 はひきつった笑いを浮かべた。
「別に関係ないよ」
自分にとって、遼はただのお客。迦遊羅と名乗った少女が、彼にとって友達だろうが、恋人だろうが、自分には関係ない。何度も何度も繰り返し自分に言い聞かせるたび、心のどこかに冷たく寂しい想いが凍りついていく。
憧れていたバイクの後ろに、自分以外の誰かが乗っているのを何度も見せつけられて、辛くないわけがない。おまけに、ライバル視しようにも、迦遊羅は の目から見て、あまりにも美しく整いすぎていた。遼は明言しなかったが、傍目から見れば、充分に似合いの美男美女カップルに見える。
そして、しばらくして、バレンタインディも近いある日のこと、
の前に迦遊羅が現れた。遼のバイクに乗ってではない。どうやら一人で歩いて来たらしい。
「 とおっしゃる方に申し上げたいことがございますの」
店内にスタスタと入って来て、レジの前にいた にそう語ったらしい。上品な言葉遣いに慣れていない は、ビックリして を呼び出した。たまたま、昼休みの一時間をもらって、カウンターの奥の倉庫代わりの個室でお弁当を食べていた は、 に呼ばれて、慌てて個室を飛び出した。
店内には、洗車やタイヤ交換など、隣接する修理工場待ちの客のためのテーブルや椅子が用意されている。長椅子に腰掛けた迦遊羅は、汚れた制服姿の
を興味深そうに見つめた。相変わらず整った顔立ちの迦遊羅は図抜けて美しく見え、身にまとった白く長いコートが良く似合っていた。思わず、つなぎ姿の自分を見下ろし、 はため息をつきそうになった。
絶世の美少女がバイトの 目当てで、店に徒歩でやって来たと知り、伯父である店長や他の社員、バイトの 、更に他の客までが、興味深そうに二人を眺めている。いたたまれなくなった は、店内の自販機からコーヒーの缶を二本買って、迦遊羅を表に誘った。外は寒いが、客や店員で溢れ返った店内で話すよりはよほど気楽だ。
二人が店を出ると、誰かが残念そうな舌打ちをする音がした。 は内心、『外に出ることにして良かった』と思った。
店の外の洗車機付近に立ち止まり、 は迦遊羅に缶コーヒーを渡した。ここならばひと気もないし、洗車機のおかげで、辛うじて冷たい風を防げる。
「外に連れ出してごめんなさいね。はい、どうぞ」
「……これは一体、どういうものですか？」
心底、不思議そうに迦遊羅に尋ねられて、 は一瞬、意味が分からなかった。だが、缶コーヒーのことを尋ねられていると知って、ビックリを通り越して、感心してしまった。今時、缶コーヒーが何か、分からないなんて、迦遊羅はその外見通り、よほどセレブな家庭に育った少女らしい。
「これは暖かい飲み物です。こうやってプルトップを開けて、開いた口から中身を飲むことができます。……あ、コートを汚さないように気をつけてくださいね」
実演してみると、興味深そうに迦遊羅は の仕草を真似て、早速プルトップを開けることに集中した。長い爪が二、三度、宙を舞ったが、なんとか器用にプルトップを開け、中身を一口飲んだ。
「美味しい飲み物ですね。初めて飲みましたが、異国の物ですか？」
の空想に、セレブのイメージから、純和風の閉鎖的なお家柄というイメージがプラスされた。
「はい。コーヒーと言います。外国から輸入したコーヒーノキの種を乾煎りした後で挽いて、暖めたお湯で漉した飲み物なんです。こんな缶じゃなくて、喫茶店に行けば、本物のもっと美味しいコーヒーが飲めると思いますよ。真田くんに頼めば、いくらでも連れて行ってくれると思います」
遼の名前を出して、ようやく は迦遊羅が何の用件で来たのかを、まだ尋ねていないことに気がついた。
「今日は、一体、私に何のご用ですか？」
コーヒーを両手で抱えて、その温もりを味わいながら尋ねる。すると、迦遊羅は困ったような顔で、下を向いた。
「真田殿のことで勝手な行動をして申し訳ないとは思ったのですが、近頃、あまりにも真田殿のご様子がおかしいので、貴女様が何かご存知ではないかと思ったのです」
『殿』だよ、『殿』！？ と面食らいながらも、 は迦遊羅の言葉にひっかかりを感じた。
「真田くんの最近の様子がおかしいって本当ですか？」
最近、遼のことをバイト先やクラスでも避けていたので気づかなかったが、目に見えた変化はないような気がする。しかし、迦遊羅は断言した。
「はい。突然、ぼんやりとなさったり、『オレが悪いんだ』と呟かれたり、なにやら深く悩んでおられるご様子なのです」
としては返事のしようがなかったが、迦遊羅が本心から遼のことを心配していることは伝わった。
「迦遊羅さんは、真田くんに様子がおかしい理由を尋ねなかったんですか？」
「わたくしもお悩みの理由をお尋ねしたのですが、『心配しないでくれ』とおっしゃる一点張りで。真田殿には、一度こう決めたら、頑固なところがおありですから」
確かに迦遊羅の言う通りの面が、遼にはある。他人に必要以上に心配をかけたり、迷惑をかけたりすることを嫌うのだ。クラスメートの噂によると、遼は幼い頃からカメラマンの父と子の二人暮らしで、その父も旅行で留守がちだったため、一人暮らしの生活が長かったらしい。そのため、他人に頼ったりするのが、遼は極端に苦手なようだった。
迦遊羅のしょんぼりした顔を見ていると、 は元気づけたくなって来た。思い切って、明るい声音で言う。
「分かりました。今度、学校で会った時に、私の方から真田くんに話を聞いてみます。迦遊羅さんも元気を出してください」
なぜ恋敵である少女を助けるような真似をするのか、自分でも分からなかったが、先ほどのコーヒー缶の開け方が分からなかった件と言い、なんとなく迦遊羅には放っておけない世間ずれしていない雰囲気があった。
迦遊羅は の言葉を聞くと、花がこぼれ咲くような華やかな微笑みを見せた。
「ありがとうございます！ 遠方におられる、他のお仲間にご心配をおかけするのも良くないと思いましたし、真田殿と近しい方と言うと、貴女様くらいしか分からなくて。相談させていただいて良かったですわ」
「ちゃんと真田くんを叱っておきますよ。大事な彼女を心配させるような真似をするなって」
拳を固めて が言うと、迦遊羅は首をかしげた。
「真田殿の『大事な彼女』とおっしゃるのは、どなたのことですか？」
今度は が首をかしげる番だった。
「迦遊羅さんのことですけど？」
「確か、今の日本語で『彼女』というのは『恋人』と言う意味でしたね？」
「あ、はい」
『今の日本語？』と思いながらも、 がうなずくと、迦遊羅は瞳をこれ以上ないというところまで、大きく見開いた。
「わたくしは真田殿と恋仲ではございません。それでは真田殿にご迷惑ですわ」
思わず はコーヒーを気管に詰まらせた。
「二人は付き合ってる訳じゃないんですか！？」
「ええ。真田殿はわたくしの大切な……『戦友』とでも申しましょうか。『お友達』です」
キッパリと断言されて、もしかして遼が落ちこんでいる理由というのは、迦遊羅に失恋したせいではないかと、 はかんぐった。だが、こればかりは遼本人に確かめてみないことには分からない。
昼食の途中だからと言って、そのまま迦遊羅に別れを告げたが、迦遊羅は次に が振り返った時には、スタンド近くの道には立っていなかった。足の速い少女だと、 はつくづく感心した。
問題は遼にどうやって聞き出すかだが、遼の迦遊羅への恋慕が関わって来るとなると、人目があるところで聞くのはまずい。いろいろ悩んだ挙句、 は数日後の放課後、遼を呼び出すことにした。
その日はたまたまバレンタインディ当日だった。学内は恋の駆け引きをする男女でいっぱいで、どこもひと気のない場所が見つからず、唯一見つかったのが、二月も半ばを過ぎた、凍りつくような屋上だけだった。
辛うじて、屋上のドアの傍で風を避けながら、 はバレンタインディに遼を呼び出した自分のうっかりぶりを悔いていた。
約束の時間ピッタリに、やはり寒そうな顔で、遼は屋上に現れた。歯の根が合わない中、早く用件を済まそうと、 は早口で遼に尋ねた。
「この前、迦遊羅さんが一人で、うちのガソリンスタンドに来たんだ」
「迦遊羅が！？」
寒さだけが理由でなく、遼の顔色が変わる。
「迦遊羅のヤツ、なにかヘンなことをしたり、言ったりしなかったか……？」
遼は口ごもったが、 は遼の言わんとすることを理解した。
「缶コーヒーに感動していたよ。とっても美味しいって。迦遊羅さんって、本当に何も知らないお嬢さんなんだね。今度、本物の喫茶店に連れて行ってあげて欲しいな。きっと喜ぶと思うよ」
「ああ、分かった」
冷たい空気を吸いこんで、 は思い切って言った。
「迦遊羅さん、真田くんに元気がないって心配してたよ。なんだか悩んでいるみたいだけど、打ち明けてくれないって。余計なおせっかいかもしれないけど、あんなに素直な迦遊羅さんに心配をかけるのは良くないと思う」
軽く床を蹴飛ばして、 は告げた。
「真田くんって、以前から思っていたけど、極端なくらい、一人で悩み事を抱えこんで、悩む癖があるよね。傍で見ていて、なんだか痛々しく思えるよ。……私で良かったら、話してもらえないかな？ 私がダメなら、迦遊羅さんにでもいいから」
急に遼はムッとした表情になった。
「一人で悩みを抱えこんでるのはオレじゃない。 のほうだろう？」
「へ？」
「ガソリンスタンドに行っても、話しかけて来なくなったし、学校でもバイト先でも笑顔が少なくなった。オレが話しかけようとすると、急に用事ができて、すぐにその場を離れてしまうし。オレだって常連なんだから、 の変化くらい分かるんだぜ。……だから、オレが何か に失礼なことを言ったせいで、 の元気がなくなったのかと思って、オレ、ずっと悩んでたんだ……」
「真田くんのせいじゃないよ！ 私が勝手に……」
思わず口を滑らせてしまい、 は顔を赤らめた。
「勝手にってなんのことだ？」
遼の瞳が厳しいものになる。こういう時の遼は、獲物を見つけた猛獣のように隙がない。思わず後ずさる を、遼はじりじりと追いつめ、 の肩を掴んだ。
「言ってくれよ。 に何があったんだ！？」
「……それは……」
迷ったあげく、思い切って は頭を大きく下げた。
「ごめんなさい！ 私、真田くんが迦遊羅さんと仲が良さそうだったから羨ましかったの！ だから、二人が一緒のところが見たくなくて、わざと持ち場を離れたり、真田くんに話しかけないようにしてたの！ ……店員失格だよね、本当にごめんなさい」
一瞬、虚を突かれ、次の瞬間、遼は耳まで真っ赤になって、片手で口元を押さえた。
「……迦遊羅とオレが羨ましかったって……つまり……」
ここまで素直な反応をされると、 も照れてしまう。
「私、真田くんが好きなの」
永遠にも思える沈黙の後、遼は口元から手を外し、思い切ったように言い切った。
「遼って呼んでくれないか？」
「え？」
「オレのこと。『真田くん』じゃなくて、『遼』って呼んで欲しい。できれば、オレも のこと、『 』って呼びたいんだ。……そして、今度は店員として接するだけじゃなくて、オレの後ろに乗って、一緒に走って欲しい」
今度は が耳まで真っ赤になって、言葉を失う番だった。『客』だから『店員』だからと、ずっと心の中で積もらせて凍らせていた、辛い想いが溶けていくのを感じる。
遼は思い切った様子で両手を差し出し、 の手をギュッと握り締めた。
「オレも が好きだ。スタンドで会う度にタンデムに誘いたいなって、いつも思ってたんだ」
「……嬉しいよ。私もずっと、遼とタンデムできたらなって思ってたんだ」
二人は微笑みあった。相手の瞳の中にあるものが、互いに対する想いであることに、二人はようやく気づいた。長い間、互いに培われていた想いが、『客』と『店員』という壁のせいで見えなくなっていたことに、二人は初めて気づかされたのだった。
「……私、迦遊羅さんに誤解していたこと、謝らなくちゃ」
が呟くと、遼は苦笑して言った。
「そう言えば、迦遊羅だけど、そろそろ地元に戻るって言って、帰って行ったよ。あいつも大事な役目があって忙しいんだ」
「遼の彼女じゃなかったんだね」
の言葉に遼は首をすくめて答えた。
「迦遊羅は大事な友人だけど、……お互いにそういう対象として、相手を見る事はないだろうな」
「……そうなんだ。でも、またきっと会えるよね」
「ああ。また遊びに来るって言ってたよ」
互いのことに夢中で気づかなかったが、二人が上を見たら、仰天しただろう。屋上の上空、数メートルの距離に、十二単を身にまとい、錫杖を手にした迦遊羅が宙に浮かんで、二人を見つめていたのだから。
「全く世話のかかるお二人ですわね。お互いが気になって仕方ないことは目に見えておりましたのに、互いに想いを伝える努力を全くなさっておられなかったのですから」
ふうとため息をついて、しかし、迦遊羅はニッコリ笑った。
「でも、これで烈火殿にも良い方ができたようですし、たまには人間界に視察に訪れるのも良い経験になったようですわ。わたくしも烈火殿のような、恋というものをしたいものですけれど、妖邪界が安定するまで、もうしばらくは独り身でいるしかないようですわね」
成り立ての恋人達を祝福するように、藤の香りとかすかな錫杖の鈴の音を残して、迦遊羅はその場から姿を消した。
「あれ？」
吹く風に顔を見上げて、 がきょとんと首をかしげる。
「なにか甘い良い香りと綺麗な鈴の音がしたと思ったんだけど。……今の時期、花なんて咲いてないよね。気のせいかな」
香りと音の主に察しをつけた遼は、何か言いかけたが、結局、黙っていることにしたらしかった。その代わり、無邪気に微笑んで告げる。
「一足先に春が来たんじゃないかな」
「春……そうだね」
微笑んで、ふと何かを思い出したように は制服のポケットを探った。
「これ、今日はバレンタインディでしょう？ 遼なら、たくさんもらったと思うけど、良かったら、どうぞ」
受け取った遼は早速、包みを破り、破顔した。それはバイクの形をしたチョコレートだったのだ。
「さすがにバイクのチョコレートの型は売ってなくて、市販品になっちゃったけど」
「それでも充分、嬉しいよ。ありがとう。……今度は絶対に、タンデムで遊びに行こうぜ！」
「うん！」
微笑みあう二人を、春の先触れのような、藤の香りを含んだそよ風がそっと包みこみ、そして消えて行った。
＜終＞
＜あとがき＞
１０のお題のうち、なぜか一番、難産でした。
最近はセルフのスタンドも増え、従業員は資格がないとガソリンを入れられない決まりになったので、
ヒロインのような、給油を主にしたバイトはほぼ絶滅したと思いますが、
昔話だと思ってお読みください。
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