５、淡雪
冬の夕暮れが迫る時刻。夕飯の支度を始めたナスティは、つまみ食いをもくろんで、キッチンに顔を出した秀に用事を言いつけた。
「秀、悪いんだけど、ベランダへ行って洗濯物を取りこんでくれる？ それと、庭に伸とちゃんが出ているみたいだから、ついでに植木に水まきしてもらえるように伝えてちょうだい」
「おぅ！」
報酬代わりに、揚げたての唐揚げを一個もらった秀は、二つ返事で引き受けた。弾みをつけて階段を上がり、二階のベランダに出る。
急速に陽射しが落ちかけている空の下、湖から来る冷たい夕風が辺りを吹き払っていく。物干しにはジーンズやバスマットなどの厚手の洗濯物が乾いた色を見せていた。
手近なバスマットを取りながら、秀が庭を見下ろすと、向かい合ってたたずむ二人の横顔が見えた。伸とだ。
ナスティからの伝言を伝えようと、秀がベランダから身を乗り出した途端、夕風に溶けこみそうにかすかな…だが、凛とした少女の声が、秀の耳に届いた。
「…伸くんが好き…です。初めて会った時から、ずっと」
秀の心臓が大きく跳ねた。目の前がさあっと暗くなり、耳鳴りがこだまする。
―が伸を好きだって…!? …だけど…伸には…―
告白を聞いた伸はとても驚いた顔をした。それから…困ったように微笑んだ。
「ありがとう。とても嬉しいよ。……でも…ごめんね。僕は君を友達以上には想えない。僕には…がいるから」
「分かってる」
遠目にも、の横顔はどこまでも凛として、眩しいほど綺麗だった。
「あたしものことが好きだし、二人の間に割りこめるとも思ってない。…ただ、諦める前に、どうしても伝えたかったの。ずっとあなたに恋していたことを。…聞いてもらえて、とても嬉しい。本当にありがとう」
ペコリと頭を下げるに、伸は「ごめんね」と繰り返した。
「これからも…あたしと友達でいてくれる…？」
「もちろんだよ。ちゃんは僕にとって、今までもこれからも大切な友達だから」
それを聞くと、は「ありがとう」と穏やかに笑った。深い色を宿した瞳に涙の陰はない。だが、秀には、泣かないのではなく、泣けないのだと、すぐに分かった。
…涙も出ないほど、諦めきっていて、それでも伝えずにはいられなかったのだろう。淡雪のように、誰も気づかないうちに、そっと静かに積もり続けた…強くてひそやかなの想い。
知らないうちに、力のゆるんだ秀の手から、鮮やかなオレンジ色のバスマットが宙を舞った。
「やべっ」
慌てて捕まえようとして、秀はバランスを崩した。『しまった』と思う前に、体がベランダから飛んでいた。
庭先に見事に着地した後で、秀は自分が大失敗したことに気がついた。
驚きととまどいと恥じらい…。いきなり空から舞い降りて来た秀に、と伸の表情がクルクル変わった。あせった秀は、なんとか場をごまかそうとしたが、出てきたのは予想以上に情けない声だった。
「あ〜…ナスティが植木に水をまいてくれってよ〜！」
「あたし、行って来る！」
身を翻すのはが早かった。スカートの裾がふわりと広がり、そのままホースのある玄関先へ駆けて行った。残されたのは伸と…秀。
「…伸！」
詰め寄られた伸は、落ち着いて秀を見返した。
「いくらがいるからって、もうちょっと言いようっつーか、やりようがあんだろーがっ!?」
「他にどう言えばいいんだい？ いくら言いつくろったって、僕はの気持ちに応えてあげられないんだよ？」
「…だけど…！」
緑の瞳を秀にまっすぐ向け、伸は開き直ったように言った。
「…秀が僕に怒っているのは、“のため”じゃなくて“自分のため”なんじゃないの？ さっきから、“ムカついて仕方ねー”って、そんな顔してるよ」
伸の言葉はすとんと秀の胸に落ちた。…の告白を聞いてから、ずっともやもやしていた気持ちが、カチッと当てはまる。
「…ああ、そうだよ。ムカついてるよ！ …なんで、にあんな顔させんだよ…！ …なんで…あいつが好きなのは、伸で…俺じゃねーんだよ…！ …俺だったら、絶対に傷つけたりしねーのに…！」
…は、秀が初めて、本気で守りたいと思った女の子だった。だが、彼女が好きなのは、秀ではなく…。
「…畜生！」
うなだれ、拳を握り締める秀に、伸は瞳を曇らせて、頼みこんだ。
「行ってあげてくれないか？ あの子のところへ。…勝手な頼みだって分かってるけど…独りぼっちで泣かせたくないんだ」
「他のヤローのために泣いているを、俺に慰めろって言うのかよ…？」
自嘲した秀だったが、伸の頼みを断れないことは、秀自身が一番よく分かっていた。お人好しだと分かっていても、少女を独りで泣かせたくない気持ちは、誰よりも強かったからだった。
「分かったよ。…その代わり…一発殴らせろっ！」
言葉と拳は同時に繰り出され、腹にまともに拳を受けた伸は、よろめいて芝生に座りこんだ。
「けほっ…秀！ 本気でやったな!?」
咳きこみながら、恨めしげに見上げる伸に、秀は「それでぜんぶチャラにしてやるよ」と唇の端で笑ってみせた。
の後を追って駆けていく秀を見送り、伸は地面に落ちたバスマットを拾い上げた。
マットについたほこりを叩き、立ち上がりながら、伸は「…さて、僕は洗濯物でも取りこむかな」とため息をついた。
☆★☆★☆
秀が玄関先にたどり着くと、ホースを引きずって、玄関前の植木に水をまいているの後姿があった。
「」
声をかけると、びくんと肩が震え、少女は慌てて振り返った。暗い表情が一瞬で消され、懸命に作った笑みが宿る。
「秀くん、…なに？」
「手伝ってやるよ」
差し出された手に、はかぶりを振った。
「一人でできるから大丈夫だよ」
「いいから」
強引に交代しようとする秀と、それを拒むの手の間でホースが宙に浮き、派手に水が踊った。
「うわぁっ！？」
「きゃっ！？」
まともに水しぶきを浴びた二人は、同時に悲鳴を上げた。秀が慌ててホースをつかんだ時には、二人はびしょぬれになっていた。
「…冷たー…い…」
どこかうつろに呟いて、うつむいて雫を垂れる髪をかきあげるに、秀はいきなりホースの先を向けた。顔面にまともに水を受け、が悲鳴を上げる。
「なっ!? なにするのっ!?」
「水遊び。おもしれーじゃん？」
平然と答えると、秀は更にに水を浴びせかけた。季節外れの水遊びに、たまらずがその場を逃げ出すと、ホースを握ったまま追いかける。
気がつくと、二人は柳生家の庭中に水をまき散らしながら、追いかけっこしていた。
もちろん、と秀が本気で走ったら、秀に勝てるはずがない。それがなかなか終了しないのは、秀が加減をしながら追いかけているせいだと、にもすぐに分かった。
「もう、やめてよっ！ 風邪ひいちゃうじゃないっ！」
盾にしている樹から顔を出して、が叫ぶと、出した顔に更に水がかかる。
「秀くんってば！ いつまでもふざけてると怒るよっ！」
再び顔を出して怒鳴る。今度は水が飛んでくることはなかった。その代わり、妙に生真面目な顔をして、秀は告げた。
「怒れよ」
「え？」
意味が分からないと首をかしげるに、秀は言い募った。
「怒ったって、泣いたっていいじゃん。悲しい時に、無理して笑うほうが変だぜ？ さっきだって、あんな悲しそうな瞳をしてたくせに、なんで平気な振りして、笑ってみせたりするんだよ」
「だ…だって…」
の唇が震えた。
「あたしの勝手な片想いなのに…泣いたら…伸くんに迷惑がかかるもの…」
「だったら、なんで今頃、好きだなんて言うんだよ？ が伸を好きなんて、誰も気づいてもいなかったぜ？」
の顔がくしゃりと歪む。
「…秀くんのいじわる…」
秀はホースを地面に落とし、ゆっくりとに近づいた。
「そうだよ。俺ってすっげー意地悪なんだぜ？」
怯えるように見上げるの背中に片手を当て、もう片方を濡れた頭にそっと置く。そして、少女を自分の胸元に抱き寄せた。
「…だから、今ならぜんぶ、俺のせいにできるだろ？ かまわねーから、思いっきり泣いとけって！」
ぽんぽんと幾度も秀の手のひらが優しく背中を叩き続けるうちに、糸が切れたように、突然、は泣き出した。
他の男を想って泣く、愛しい少女を腕の中にくるみ、秀は苦く笑った。
自分も初めて会った時から、ずっと彼女を想っていたことも、今はなにも打ち明けないでおこうと、心に決める。今はただ、の降り積もった悲しみの淡雪の、何分の一かでも溶かしてあげられれば、それで充分だから。
…でも、いつか彼女が泣き止んで、本当の微笑みを見せる時、ほんの少しだけ願ってもいいだろうかと、こっそり思う。
の心の片隅でもいい、自分の居場所も作ってもらえないだろうか…と。
＜終わり＞
＜あとがき＞
タイトルは後から強引に変えました。最初は夏のお話だったんです。タイトルに合うどころか、雪が降ってすらいないよ（涙）
この後、仲良く風邪ひいてそうだな、この２人。
…それにしてもごめんなさい〜（滝汗）微妙に悲恋というか、すれ違い片想いというか…。
私の中で『好きな子を黙って見守る片想いキャラ』が似合うのって秀くんなんです〜！
伸くんだったら、欲しいものは必ず手に入れるって感じで、なにがなんでも振り向かせちゃう気がするから（笑）
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