７、ネムの花
は某大学文学部史学科の、考古学ゼミに属する大学３年生だった。
その日は前期の最終ゼミで、１８時に最終の授業を終えた後、ゼミ生達は前期授業の終了を祝って、大学近くの焼鳥屋で飲み会を開いた。３時間程飲んだ後、更に時間の余裕のある者は、二次会のカラオケに雪崩れこみ、もそれに加わった。
はこの日、課題レポートの発表者に当たっていて、かなり以前から熱心に準備し、前夜に徹夜までしてやっと仕上げた発表内容を、指導教授に手厳しく批判されたため、その鬱憤をお酒と好きな歌で晴らしたかったのだ。
徹夜明けの体に、大量のアルコール摂取はいくらストレスが溜まっていたとしてもまずかった。…もっとも、そう思ったのは、翌朝、が暮らしている学生マンションの１ＬＤＫとは似ても似つかない、見知らぬ部屋にたった１人で目覚めた後のことだった。
「…ここ…どこ…？」
懸命に昨夜の行動をたどってみるが、カラオケルームでカクテルをあおりながら、十八番の歌をシャウトしていた以降の記憶はぷっつりと途切れている。不幸中の幸いは、相当飲んでいたにも関わらず、二日酔いの症状が一切現れず、ひどくすっきりとして目覚めたことだろう。
思い返してみれば、二次会にはのマンションの住所を知っている人物は参加していなかった。そのため、二次会解散後、同じゼミの誰かが自宅まで伴って帰り、泊めてくれたのだろうと、は推理した。
思いつく限り、同じゼミの親しい女友達の家を思い浮かべてみる。…しかし、遊びに行ったことのある友人のどの部屋とも、の目覚めた部屋は似ても似つかなかった。…というより、を愕然とさせたのは、彼女が眠っていたスチール製のベッド以下、女性の寝室にしては、あまりにも簡素すぎる室内のたたずまいだった。
レースのカーテンも、お化粧品の並んだ鏡台も、可愛いぬいぐるみも、と同年代の女性が好みそうな、ちょっとした飾り物の類は全く見られない。あるのは、大量の本と、学校の壁に相応しそうな無愛想な壁かけ時計、蛍光灯が置かれた木製の勉強机である。唯一の部屋の飾りは、勉強机の上に置かれた一輪挿しにピンク色の花が一輪、咲いていることくらいだった。…この部屋の簡素さから推測されるのはただひとつ、ここは男性の寝室だと言うことだった。
思わず、自分の着衣に乱れがないかを確認して、靴こそ履いていないものの、昨夜と全く同じ服装でいることに、心底、胸を撫で下ろす。
ベッドから床のフローリングに足を下ろし、部屋の中を渡って、窓のカーテンを開けてみる。窓からは近所の屋根が見渡すことができ、今、自分がいるのが二階だということを知らせた。日は既に高く昇り、壁掛け時計も時刻がお昼近いことを告げている。
は恐る恐る部屋のドアに向かい、ノブを回した。ドアの外には廊下があり、閉じられた何部屋が続いている。廊下の突き当りからは、一階に下りる階段が続いているのが目に入った。さすがに他の部屋を覗き見る勇気はなく、物音を立てないようにして、は階段を下りた。
一階は洗面所、キッチン、ダイニング、応接間、更に和室があるようだった。整頓された洗面所に入りこみ、顔を洗って髪を整えると、ようやくにも周囲を落ち着いて観察する程度の心の余裕ができてきた。
家の中に置かれている家財道具は、どれも上質の物で、それなりに裕福な家庭であることを伺わせる。また、あちらこちらに書棚が置かれ、大量の本が並んでいた。この家の主は相当な読書家らしい。料理道具がほとんどなく、汚れ一つないキッチンは、この家が男所帯であることを告げていた。
はそろそろとキッチン伝いにダイニングへ入り、続き部屋の応接間を覗いた。途端に心臓が止まりそうになった。
「…羽柴くん…！？」
整った顔立ちの青年が一人、応接間のソファの上で、タオルケットを一枚かぶって、熟睡していたのである。
青年の額に寝乱れてかかっているのは、晴れた日の空を思わせる蒼い髪。長いまつげと瞼によって閉じられている瞳も、同じ蒼色だということをは知っている。ＩＱ２５０と噂される知性を持つと同時に、文武両道の誉れ高く、弓道部のエースであることも。…そこに眠っていたのは、と同じゼミ生の羽柴当麻だった。
規則正しい寝息を立てている青年の顔をまじまじと見て、は自分の頬を思わずつねった。だが、頬の痛みは本物で、夢を見ているわけではない。の目の前に寝ているのは、確かに羽柴当麻だった。
の心臓が早鐘を打ち始める。…実は、は同じゼミになった時から、ずっと羽柴当麻に恋心を抱いていた。その相手が、まさに目の前で、邪気のない寝顔を見せているのだから、平静でいろと言われても無理な相談だった。
「あの…羽柴くん…？」
恐る恐る近づき、当麻を軽く揺する。しかし、当麻は表情一つ変えることなく、目覚める様子は全くない。は困ってしまい、もう少し力をこめて、当麻を揺さぶった。
「羽柴くん？ 起きて！」
しかし、当麻の起きる気配はなかった。実は彼は眠っているのではなくて、どこか具合を悪くしているのではないか…。急に不安が頭をもたげ、は半泣きになった。
「羽柴くん！？ しっかりして！？ 羽柴くん!!!」
「……ん？」
必死の声が呼び覚ましたのか、蒼い瞳がうっすらと開いた。焦点の合わない半目のまま、蒼い瞳がを見る。
「大丈夫！？ 気分でも悪いの！？ 救急車を呼んだほうがいい！？」
蒼い瞳が何度か瞬きし、それから、当麻は大きく欠伸をした。
「…もう起きたのか。早いな…」
とぼけた声だが、口調はしっかりしている。どうやら彼は単に寝ぼけていただけらしいと分かり、本気で当麻の容態を心配していたはガックリと肩を落とした。
「…早いって…もうお昼だよ、羽柴くん…」
「…ん。おはよう」
「…もしかして、昨夜、泊めてくれたの？ ここ、羽柴くんのお宅？」
「ああ。…なんだ。昨夜のこと、まるで覚えてないんだな」
うなずいてから、当麻はソファから半身を起こし、大きく伸びをした。『昨夜のこと』と言われて、は硬直した。
「…あたし、昨夜、何かした…？」
「カラオケが終わって、終電ももうなかったんで、帰りに俺がタクシーに乗ろうとしたら、『方向が同じだから』って、が強引に乗りこんで来て、そのままシートに寄りかかって熟睡しちまったんだ。行き先を聞こうにも起きないんで、どうしようかと思ったぜ。…それで、仕方ないから、一緒に家に連れて帰って来たんだけど？」
は耳まで真っ赤になってうつむいてしまった。仮にも片想いの相手に、かなりの醜態をさらしてしまったらしい。できるものなら、このまま地の底にでも消え失せてしまいたいと思う。ところが、が赤くなった理由を誤解したらしく、ほりほりと頭をかきながら、当麻は微苦笑した。
「安心しろ。心配するようなことはしてないぜ。俺は寝てる女の子をどうこうする趣味はないからな」
「…あ…ありがとう…」
とりあえず、うら若い女性の身としてはありがたいことには違いない。たどたどしく礼の言葉を述べる。短い沈黙の後、同時に二人のお腹がそろって鳴いた。そこで、は時間が既に昼近いことを思い出した。
「…え…と、お腹空いてない？ 簡単な物で良かったら、何か作ろうか？」
の問いかけに当麻は首をひねった。
「俺はいつも朝はシリアルで済ませてるからな。…あ、でも、この前、お袋が来た時に朝飯も作ってくれたから、材料がまだ冷蔵庫に残ってるかもしれない。何か作ってくれるんなら、頼む」
幸い、羽柴家の冷蔵庫を探してみると、卵やベーコン、食パン、レタス、プチトマトなどが見つかった。
は手早くトーストを焼き、ベーコンエッグにサラダを作り、コーヒーを入れた。二人前の朝食をテーブルに並べると、のそのそと当麻が起きて来た。とろんとしていた目つきもようやくしっかりして、ハッキリ目が覚めて来たらしいことが分かる。
「お、美味そうだな」
ゼミでの付き合いも、それなりに長いは、当麻の大食らいぶりを知っていたため、当麻の朝食は量を大目に準備しておいたが、それでも足りなかったようで、当麻は自分の分に加え、牛乳をたっぷりかけたシリアルを用意した。
二人が食べることに集中したため、再び沈黙が落ちた。なんとなく居心地が悪く、はなんでもいいから尋ねてみようと口を開いた。
「羽柴くんのご両親は、昨夜、あたしが泊めてもらったことを気になさらないかな…？」
トーストにパクリとかぶりついて、当麻はかぶりを振った。
「うちの親父はＨ大の教授なんだけど、年中、研究室に泊まりっぱなしで滅多に帰って来ない。お袋は、俺が子どもの時に離婚して、たまに掃除がてら、家に来る程度なんだ。俺が家に誰を泊めようと、二人とも気にしやしないさ」
「…そうなんだ…。ごめんなさい。失礼なことを聞いてしまって…」
うっかり羽柴家の家庭の事情に踏みこんでしまったは、なんと反応していいか分からず、箸を迷わせた。の戸惑いを敏感に察したらしく、当麻は柔らかく微笑した。
「俺の親父とお袋はあっけらかんとしてるから、離婚した今でも友達付き合いを続けてるし、２人にとっては夫婦でいるよりも、そのほうが付き合いやすいらしいんだ。だから、俺も両親が戸籍上、どうなっていようが気にしてない。も気を遣わないでくれ」
「…う、うん」
当麻の言葉以上に、その声音に含まれる明るさに救われて、はホッとしてうなずいた。そのまま何気なく、視線を食卓の上にさ迷わせる。すると、簡素な食卓の上の一輪挿しの花瓶と、そこに飾られたピンクの可愛い花が目についた。
「…綺麗な花だね。この花、羽柴くんの部屋にも飾ってあったでしょう？ 羽柴くんのお母さんが飾ったの…？」
「ああ。ネムの花と言うらしい。英語ではシルク・ツリーって言うんだったかな」
確かに見た目もシルクのように柔らかそうである。刷毛のように柔らかそうな花に触れようと、手を伸ばしたの手首を、当麻の手が捕まえた。
「そうそう。そう言えば、ネム…『合歓』という言葉は、男女の共寝を意味しているらしいぞ？ 俺達も一応、昨夜はひとつ屋根の下で共寝したってことになるのかな？」
「……!?」
『共寝』と古語で聞けば優雅だが、要は『男女の関係になった』という意味になる。思わず、かあっと赤くなるを、面白そうに眺め、当麻は「冗談だって」と笑って、手を離した。は離れた手を胸元に引き寄せたが、爆発しそうなほど高まる胸を抑えるのに必死だった。
どちらが先ともなく食事を終え、食後のコーヒーを飲みながら、は当麻に最寄り駅の名前と、当麻の自宅からの道のりを尋ねた。当麻の言った最寄り駅は、のマンションの最寄り駅とは数駅違いで、しかも当麻の家から駅までは徒歩十分程で行けるようだった。
二人分の食器を洗って片付けると、は手荷物を取り上げ、帰る準備をした。
「泊めてくれて、本当にありがとう。それと、ベッドを占領したり、いっぱい迷惑をかけてごめんなさい」
「いや。おかげで美味い朝食も食えたし。どうせ気ままな一人暮らしだ。いつでもどうぞ」
にこやかに笑って、当麻は玄関先までを送り出してくれた。
が玄関を出る時、一瞬だけ当麻が「本当に何も覚えてないんだな」と少し残念そうに呟いた気がしたが、扉の閉まる音にかき消されたため、は気のせいだと思った。
当麻に教えられた通りの道のりを駅に向かって歩き出す。見上げると、真昼の太陽の眩しい光がの瞳を射した。
それは一瞬の白昼夢だったのかもしれない。かすかな記憶の欠片がの内側で蘇った。
大きくてしっかりした腕がを支えながら、確実な足取りでベッドに運んでいく。ぎこちなく柔らかな布団に横たえながら、そっと耳元でささやかれた一言。
『…、好きだ』
そして、アルコールの甘い香りと共に、の唇をかすった温かく柔らかい感触。温もりはすぐに離れ、静かな当麻の声が再び告げた。
『…おやすみ。良い夢を…』
思わずぽかんと立ち止まり、幾度もまばたきを繰り返す。この記憶は現実にあったことだろうか…？ それともネムの花が見せた一夜の幻か…？
全てをあからさまに照らし出す真昼の光の中では、事の真偽を問いただすのは、あまりに無粋な気がした。
夢なら夢で構わない。この胸に秘めた想いを、いつか彼に告げるための勇気のもとをひとつ、見つけられた。そんな幸せな夢だったと思えばいい。
大きく伸びをして、満面の笑みを浮かべると、はゆっくりと駅に向かって歩き出した。
＜終わり＞
＜あとがき＞
…夢落ち！？ でも、「ネムの花」の花言葉は「歓喜・胸のときめき」で、合歓という言葉は「男女の共寝」を意味している。
…という時点で、全年齢向けのお話しか書けないお子様な神無月には、こんなお話しか浮かびませんでした。ごめんなさい〜m(__)m
まあ、こんな恋愛未満の恋愛があっても良いのではないでしょうか？
ただし、良い子の皆さん、お酒は飲んでも飲まれるな。間違っても酔っ払って、男性のお宅になんか転がりこんじゃいけませんよ〜。男を見たら狼と思え（笑）です。
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