恋に落ちたのは一瞬
作：神無月 風
晩秋の雑踏の中、思わず立ち止まったのは、雑然とした街中に似合わぬ、澄んだ笛の音が聴こえて来たから。
そこは代官山駅から、友人の毛利伸が一人住まいしているマンションへと向かう道筋だった。青空色の髪と瞳を持つ高校二年生、羽柴当麻は、流れるメロディの源を探して、辺りを見渡した。
通り過ぎる人々の間から、歩道の隅で背筋を伸ばして立っている、少女の姿を見つける。当麻と同い年くらいだろうか、可愛らしい顔立ちに、温かそうな虹色のポンチョを羽織り、薄茶色のロングブーツを履いて、まるでアンデスの山から一人、旅して来たような風情である。
口元に当てられた、少女の手には空色のオカリナがあり、高原を吹き抜ける風を思わせる音色が、初めて聴く優しい旋律を奏でていた。爽やかで、どこか懐かしい、そんな不思議な感情を、そのメロディに当麻は抱いた。
無心にオカリナを吹き続ける少女の足元には、布製のバッグの他に、丸い形の瓶が置かれていて、十円玉や百円玉が数枚入っている。
当麻は少女から少し離れた所に立って、曲が終わるまでオカリナのメロディに聴き惚れた。曲が終わると、ポケットから小銭入れを出し、少女に無言で近づくと、ひょいとかがんで、瓶に五百円玉を入れた。
「……あ、あの……！」
笛の音に負けない、澄んだ声が響いた。
見上げると、さっきまで吹いていた空色のオカリナを手に、少女が当麻を見つめていた。吸いこまれそうな綺麗な瞳だと思いながら、当麻は少女を見つめ返した。おずおずと少女が尋ねる。
「こんなにたくさん、いただいて良いんですか？」
立ち上がりながら、当麻はニッと笑って、うなずいて見せた。
「ああ。あんたの笛の音、気に入ったからさ。綺麗な曲を聴かせてくれた感謝の気持ちって奴」
少女の顔に浮かんでいた戸惑いが、純粋な感謝に変わる。深々と頭を下げて、少女は礼を言った。
「ありがとうございます」
そうして、少女は足元からバッグを拾い上げると、オカリナをバッグから出したケースに丁寧にしまい、小銭の入った瓶の蓋を閉めた。
「今日は、もう終わりなのか？」
「ええ。もうすぐ暗くなりますから」
荷物を全てしまったバッグを肩にかけて、少女が見上げる空には夕闇が迫っている。
「ここは良く通る道だけど、君みたいなストリートミュージシャンは初めて見たな」
少女が微笑む。その笑顔の愛らしさに、思わず鼓動が早くなるのを、当麻は感じた。
「私もここに来たのは初めてです。路上ライブを始めたのは、半年くらい前からですけど、いつも色んな場所でやっていますから」
「……また、ここにも来るのか？」
「ここにですか？」
小首をかしげる仕草のあどけなさに、頬が熱くなって来る。自分が少女の仕草のひとつひとつに、ドキドキしている事を悟られまいと、当麻はつい早口になった。
「俺の友達に尺八が趣味って奴がいてさ。そいつなら、君みたいなミュージシャンにも興味を持つと思ったから」
少女の笑みが深くなった。
「じゃあ、来週の同じ時間帯に、晴れたら、またここへ来ます。雨だったら、その次の週の同じ時間に」
再び頭を下げた少女はそのまま身を翻した。虹色のポンチョが雑踏の薄闇に溶けて、綺麗だったメロディの面影ごと消えてしまいそうで、最後に当麻は呼び止めた。
「俺は羽柴当麻。君の名前は？」
「……です」
高原にひっそりと咲く花のような無垢な笑みと、澄んだ声音を残し、は立ち去った。当麻は短気な性格の彼らしくもなく、ぼんやりとの後ろ姿が人混みにまぎれて消えて行くのを見守っていた。
伸の家に辿り着いた当麻から、遠距離電話を受け取った伊達征士は、電話口で困った声を出した。
『誘いは嬉しいが……。仙台から代官山まで来週末に遊びに来いとは、急な話だな。しかも雨天延期では無駄足になる危険もある』
「週末なんだし、学校は休みだろう？ 伸のマンションに二人で泊まればいいさ。俺なんか、しょっちゅうナスティの家に行っては、伸の所に泊めてもらっているぜ」
『週末は道場がある。第一、伸は今年、大学受験なのだぞ？ 少しは迷惑をかけている自覚を持て』
キッチンから夕食を運んで来た、茶色の髪に碧の瞳の伸も、当麻の勝手な言い分に眉を下げている。
「さっきから聞いていれば、僕の家を何だと思ってるんだい？」
『ひとまず、誘いは受けよう。来週末に伸の家へ行けば良いのだな』
そう言って、征士は電話を切った。電話の受話器を元に戻した当麻は、食卓へ向き直った。
「お、伸ちゃん、相変わらず、料理上手！」
食卓には、炊きたてのご飯に豆腐のお味噌汁、焼き魚に唐揚げ、天ぷら、煮野菜、海草サラダが並び、デザートには冷えた梨まで添えられている。
「泊めてあげるだけじゃなくて、ただでさえ大食らいの君に、毎回、ご飯を用意してあげている事も感謝して欲しいね」
伸の言葉に、ありがたく両手で箸を捧げ持って、「いただきます」と頭を下げると、早速、当麻はご飯を平らげ出した。一方の伸は、箸には手を出さず、物言いたげに当麻を見ている。
「来週末、もちろん僕も一緒に行って良いんだよね？」
「はあ！？」
思わず箸を止めて、伸を見やる当麻に、にやりと伸は笑ってみせた。
「当麻がそこらのストリートミュージシャンに、そんなに関心を持つとは思えないからさ。相当、オカリナが上手だったか、吹き手がよほど可愛い女の子だったかのどちらかだろう？ どっちだったとしても、僕も充分に興味あるね。……そうだ。せっかく征士が仙台からわざわざ出て来るんだから、遼と秀も誘ってみようっと」
「おい、伸！」
五人の仲間全員を集めるなんて、「何もそこまで大げさにしなくても」と言いかける当麻に、伸が畳みかける。
「来週も、僕の家に泊まって、ご飯も食べるつもりなんだよね？」
これには当麻もぐうの音も出なかった。承諾の代わりに食事に集中する。してやったりと言った表情で、伸は自分の箸を手に取った。
天空のサムライトルーパーである当麻が快晴を祈ったためか、翌週の週末は見事に晴れ渡った。
征士以外の仲間達、真田遼、秀麗黄も、伸の呼びかけに応じて、ちゃっかりと集い、全員で当麻につき添った。
五人が辿り着いた時、は既に先週と同じ場所にいて、足元に瓶を置いているところだった。今日のは空色のポンチョ姿だった。いきなり五人の美少年に囲まれたは瞳を丸くしたが、その中央に当麻を見つけて、笑顔になった。
「羽柴さん、こんにちは。尺八がご趣味のお友達がたくさんいらっしゃるんですね」
当麻は苦笑して、征士の肩に片手を置いた。
「尺八が趣味なのはこいつ。伊達征士って言うんだ。他の奴らは興味本位でついて来た友達だ」
「お友達を誘って下さったんですね。ありがとうございます」
深く頭を下げると、はオカリナを取り出した。
当麻も知っている有名なアーティストの曲や、アニメの主題歌なども織り交ぜつつ、初めて聴く曲も含めて、は六曲、演奏した。オカリナの音色が美しかったのも事実だが、たった一人のストリートミュージシャンを、それぞれ特徴的な美少年が五人もずらりと囲んで、演奏を聴いているのは、通行人にも壮観だったらしく、今日は足を止める者が多かった。
六曲目を終えて、が頭を下げると、「アンコール！」の声がお調子者の秀から上がり、一緒に聴いていた通行人からも拍手が出て、結局、は七曲目に、初めて当麻が聴いたのと同じ曲を演奏した。
「今日はこれで終了です。本当にありがとうございました」
嬉しげに頬を染めて、が礼を述べる時には、先日に比べて、明らかに瓶の中の小銭の量が増えていた。
片付けを始めるを、秀が呼び止めた。
「なあ、あんた、ちゃんって言うんだよな？ この後、暇？ 良かったら、俺達と一緒に茶でも飲んでいかねーか？」
「良いね、それ。僕、この近くに、美味しい紅茶専門店を知っているんだ」
伸が秀の言葉にうなずく。ためらうように小首をかしげると、当麻の瞳が合った。
「嫌だったら、断ってくれて構わないぜ？」
「……いえ。予定も特にありませんし、お茶くらいでしたら」
微笑んでが告げた時、当麻は内心、秀と伸が一緒に来ていた事に感謝していた。不器用な当麻と無愛想な征士の二人組で演奏を聴いていたならば、をお茶に誘う事など思いもつかなかったに違いない。
伸が皆を案内した紅茶専門店は、路地の奥まった場所にある隠れ家的な店で、紅茶と焼き菓子の香りがたちこめた店内は、英国のアンティーク家具で飾られ、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
小さい店内は座席数もそれほどなく、六人で店の中央にある大きなテーブルを占領する。メニューを広げて店員に注文をした後、五人の少年は思い思いにに挨拶した。
まずと言った感じで、黒髪に蒼い瞳の遼が軽く片手を上げる。
「俺は真田遼。山梨に住んでいるんだ」
紺色の髪に紺色の瞳の秀が悪戯っぽく片目を閉じてみせる。
「秀麗黄。横浜の中華街に住んでる」
黄金の髪に菫の瞳の征士が生真面目に一礼した。
「私の名は伊達征士。仙台から来た」
伸が柔らかな微笑で挨拶する。
「僕は毛利伸。住んでいるのはこの近くだけど、実家は萩なんだ」
最後に当麻が名乗った。
「先週も名乗ったけど、俺は羽柴当麻。大阪在住なんだが、知人の家で考古学の資料を見せてもらうために、週末はほとんど上京している。……ちなみに、伸は高校三年生、他の皆は俺も含めて、高二だ」
は「皆さん、色んな所からいらしているんですね」と驚いた様子を見せた。
「私はと言います。音楽大学の一年生です」
てっきり同年齢だと思っていた当麻は、思わず声を上げていた。
「年上！？」
は恥ずかしそうにうつむいた。
「実年齢より幼く見られる事が多いんです……」
「大学生だったのかよ。だったら、ちゃん付けはまずいか。サンって呼ばねーと」
秀が言うと、「いえ、呼び捨てでも、ちゃん付けでも、お好きな呼び方で良いですよ」とは微笑んだ。
「じゃあ、俺達の事も名前で呼んでくれよな」
人懐こい秀の言葉に、はこくりとうなずいた。
その時、カウンターの奥から、それぞれが注文した紅茶とケーキが運ばれて来た。全員、早速、食事にとりかかる。
「店内の雰囲気も良いし、お紅茶もケーキも美味しいですし、本当に素敵なお店ですね。案内して下さってありがとうございます」
紅茶とシフォンケーキに口をつけながら、は伸に向かって頭を下げた。伸も「喜んでもらえて嬉しいよ」と笑顔で返す。
今度は征士がに話しかけた。
「オカリナは上手に吹きこなすのが難しいと聞いた事があるが、どれも見事な演奏だった。相当、練習を積まれておられるのだろうな」
尊敬の念のこもった褒め言葉に、は嬉しそうに答えた。
「練習は小学生の頃から始めたんです。路上で演奏し始めたのは、まだ半年ですけど」
「聴いた事のない曲が何曲かあったけど、あれはちゃんのオリジナル曲なのか？」
遼の質問に、「はい。自分で作りました。いつかオリジナル曲で、ＣＤを出すのが夢なんです」とは明るくうなずいた。
が感心した通り、店の紅茶とケーキはとても美味しくて、店内にはゆったりとした空気が流れており、は次々に話しかける少年達の無邪気な問いかけに、笑顔で返答していた。
そんなふうに仲間達にすっかり溶けこんでいるを見ながら、当麻は胸の奥でもやもやしたものを抱えていた。の楽しそうな表情が見られるのは嬉しいし、色んな話が聞けるのも興味深い。だが、せっかく一人で見つけた宝物を、仲間達に奪われてしまったような、子ども染みた嫉妬心が当麻の内には芽生えていた。
やがて壁にかけられた時計が七時を示すと、はバッグを抱えて立ち上がった。
「もうこんな時間ですね。ここからだと、地元の駅まで距離があるので、そろそろ帰ります」
「じゃあ、俺達はもう少しゆっくりしていくよ。征士達とは久しぶりに会ったしな」
遼の言葉に、伸が当麻をうながす。
「当麻、ちゃんを駅まで送って行ってあげなよ」
は遠慮がちに「大して遅い時間でもありませんし、一人で大丈夫です」と頭を横に振った。
「気にする事ねーって。もう外は暗いし、変な奴に絡まれでもしたら大変だろ？」
秀が朗らかに言って、征士も当麻の背中を叩いた。
「きちんと改札口まで送るのだぞ」
結局、仲間達に見送られて、と当麻はそろって店を出た。
駅まで歩く道のり、当麻を見上げるようにして、は尋ねた。
「お店では無口でしたね。何か私、お気に障る事をしてしまったでしょうか？」
ふいを突かれた当麻は、やましい心の内まで見抜かれたような気がして、慌てて「いいや」と答えた。
「あいつらが賑やかだっただけだ。俺は話を聞いているだけで充分、面白かった」
「それなら良いんですけど」
ホッとしたようにが微笑む。その笑顔を見ているだけで、頬が熱くなり、自分がを意識しているのが分かる。とにかく話題を変えようと、当麻は話を振った。
「半年前に路上ライブを始めたって言っていたけど、どうして路上に出ようと思ったんだ？」
は眉根を寄せ、言葉を探しているようだったが、やがてとつとつと語り出した。
「受験から解放されて、好きな事を思う存分、やりたいと思ったのが一つです。でも、一番の理由は、『私はここにいる』という事を、誰かに届けたいと想ったから。私の作り出す『音』を聴いてくれる人を探してみたかったんです」
「半年やってみて、手応えはあったのか？」
は「まだまだですね」と苦笑した。
「誰もが知っている、ポピュラーな曲では足を止めてもらえるけど、オリジナル曲では、なかなか最後まで聴いてくれる人はいなくて……。たった一回のライブで、五百円も瓶に入れて下さった人は、当麻くんが初めてです。だから、すごく嬉しかったです。ありがとうございます」
当麻は照れて、頭をかいた。
「いや、あの時聴いた曲が本当に気に入ったから。今日の最後にも吹いていた曲だけど、タイトルは何て言うんだ？」
「『星のララバイ』です。夜空をイメージして作ったオリジナル曲なんです」
やがて改札に着いた。切符を買ったが、当麻に目礼して改札口をくぐり抜けようとする。
――このまま別れたくない――
強い衝動にかられて、当麻は勇気を振り絞り、言葉を唇に乗せた。
「、また君のオカリナが聴きたい。今度はいつ会える？」
振り返ったの表情は驚きに満ちていたが、それはすぐに笑顔に変わった。
「来週末も晴れたら、同じ時間にここへ来ます。その次も、そのまた次も。……だから、当麻くんも気が向いた時に来て下さい」
の背中が改札口に消えた後も、当麻の口元には嬉しい笑みが残っていた。
翌週から当麻にとって、晴れの週末の上京には、に会える楽しみが増えた。
本来の目的である、考古学研究のための、小田原にある柳生邸訪問はもちろん欠かさない。古文書を紐解く瞬間の喜びがなくなった訳でもない。ただ、週末の天気予報で、東京に晴れのマークがついていると、心が浮き立つ。
晴れの日は当麻の機嫌が妙に良いと、柳生邸の主であるナスティにすら、からかわれる程だった。
午前中にナスティの家を訪ね、帰りの列車の時間が来ると、柳生邸を辞し、最寄りのバス停から駅に向かい、そこから更に代官山駅へと向かう。雨の日は終電までナスティの家にずるずると居座るのだが、晴れの日は、の演奏開始時間に間に合わせるため、早くに柳生邸を出るようになった。
そうやって熱心な追っかけそのものとなって、の演奏を聴いているうちに、当初は演奏ばかりに気を取られていた当麻も、道行く人々の反応に目を留めるようになった。何曲も聴いていくカップルや、瓶に小銭を笑顔で入れていく親子連れもいたが、口汚い野次を飛ばす者や、ひどい時には瓶を盗んで逃げる者もいた。
特に瓶が盗まれた時には、当麻は激怒して、相手を追い駆けようとしたのだが、が懸命に引き止めたので諦めた。
「相手が刃物を持っているかもしれません。大した金額でもありませんし、かえって当麻くんが危ないですから、止めて下さい」
「……しかし、あれはの曲を聴いた人の心がこもった瓶だ」
の言う通り、大した金額ではない。盗んだ当人とて、必要に迫られて盗んだ訳ではないだろう。物珍しいストリートミュージシャンを傷つけたいと言う、悪意のこもった悪戯である事は明らかだった。
そんな悪意を向けられた事が、の奏でる澄んだメロディに寄せる人々の温かい気持ち、そして、そういう人々に自分の曲を届けたいと願うの気持ちまで踏みにじられたようで、当麻は悔しかった。拳を固めてうつむく当麻に、はいつもの温かい微笑で答えた。
「怒って下さってありがとうございます。……でも、私は大丈夫ですから。当麻くんのように、私の曲を気に入って下さる方がいる限り、何があっても頑張れます」
そう言われた時、自分の存在が、の支えに少しでもなれるのならば、そうなりたいと心から当麻は思った。
に自分が恋をしていると、当麻がはっきりと自覚したのは、その時だった。
当麻がの所へ通い続けるうちに、季節は秋から冬へと移り変わった。街中にクリスマスシーズン到来を告げるイルミネーションやオーナメントが飾られ、商店街を流れるメロディもクリスマスソング一色になった。
ある日、いつものようにの立つ路上へ辿り着いた当麻は、先客の存在に戸惑った。親しげにを囲んでいる六人のグループは、明らかに当麻より年上の大学生達だった。
「ったら、どうして秘密にしていたの？」
「半年以上も、ずっと路上ライブをやっていたなんて、知らなかったわよね」
「ちょっと皆、私に感謝してよ。先週、私がここを通りかからなかったら、誰も気づかなかったんだから」
明るくはしゃぐ、大人びた女性達。
「はいはい、感謝しますよ。それより、、何か吹いてみせてくれよ」
「路上で一人で吹いていても限界があるだろう。せっかくだから、キーボードや弦楽器も入れて、皆でバンドを組んでみるか？」
「あ、それなら俺、パーカションがやりたい」
からかうように笑う、がっしりした男性達。そうした大学生達の間に立つと、も不思議に大人びて見えて、当麻には近づきがたい、遠い女性のように思えてしまった。
何となく、そのまま様子を伺っているうちに、当麻は特に一人の青年のからかいに、が過剰なまでに反応している事に気づいてしまった。
「ゼミでもおとなしい事で有名なが、皆に内緒でストリートに出ていたとはね」
頭を「よしよし」と撫でる青年に、が真っ赤になって反論している。
「折原くん！ からかわないでよ！」
「いやいや、なかなか出来る事じゃないよ。今度から俺も聴きに来ないとな。俺の親父も興味あるだろうから、誘ってやりたいし」
「だから、止めてってば！ もう、意地悪！」
対等な口調で、トンッと青年の胸を拳で叩くは、当麻の知らない、大学生の表情をしていた。
思わず、そのまま帰ろうと後ずさりかけた時、が何気なく振り向いた。の顔がぱっとほころぶ。
「当麻くん、今日も来てくれたんですね！」
の言葉に、物珍しそうに学生達が振り向く。に駆け寄られ、腕を引かれた当麻は、仕方なく大学生達の所へついて行った。
「彼は羽柴当麻くん。高校二年生なの。いつもライブを聴きに来てくれる男の子」
女性達が「わあ、！ こんな若くてハンサムな男の子、どうやって見つけたの！？」と感嘆の声を上げる。
折原と呼ばれた青年が「ひゅうっ！」と口笛を吹いた。
「、いつの間に年下趣味になったんだ？」
皮肉っぽい折原の言葉に、は「違うわよ！」とかぶりを振った。
「当麻くんは、本当に純粋にオカリナを聴きに来てくれている、私の大切なお客様なんだから、そんな言い方しないで！」
そして、当麻を見て、心底、申し訳なさそうには謝った。
「当麻くん、ごめんなさい。この人達は私のゼミのクラスメートなんです。先週、当麻くんは来られなかったでしょう？ その時、通りすがりの友達……鈴木さんに見つかってしまって、路上ライブをしていた事を白状する羽目になって。そうしたら、仲の良いクラスメートが皆、今日は聴きに来てくれる事になったんです」
鈴木と呼ばれた女性が、悪戯っぽくをつつく。
「私達に内緒にしていたのは、折原くんに知られたくなかったからでしょう？ こっちはお見通しよ。だから、ちゃんと折原くんも誘ってあげたんだから」
「それが余計なお世話なの！」
折原と名前を出されただけで、が動揺するのが分かる。
――俺が知っているのは、週末のわずかな時間のだけだ。恋人がいてもおかしくはない。おまけに、俺は彼女にとって、ただの通りすがりの聴衆の一人に過ぎないんだ――
そう理解すると、当麻の胸がきしむように痛んだ。
「俺、ちょっと用事を思い出したから帰る。ごめん」
の手を半ば振り切るように、当麻は離れた。
「そう、じゃあ、また来週、晴れたら……」
の言葉を途中で断ち切るように当麻は告げた。
「来週からは、しばらく忙しくて来られないんだ。……さよなら」
そのまま当麻は「当麻くん？」と戸惑ったの声にも背を向けて、伸のマンションへ一目散に走って帰った。
いつもより早い時間に無言で現れた当麻に、伸は驚いた様子だったが、早く来た理由を尋ねる事はなく、ただ、いつものように夕食を作ってくれた。
その日から、当麻は晴れの日の週末も、終電の時間までナスティ柳生の家に居座るようになった。
だが、古文書をめくるお気に入りの時間も、ふいにの吹くオカリナのメロディが耳に蘇り、ため息をつく事が多くなった。失恋の痛みはじわじわと当麻の胸を締めつけ続けた。
「今度は晴れの日の当麻の機嫌が悪くなったわね」
ナスティまでが苦笑気味に呟くようになった。だが、それも無理のない事だった。晴れの週末には、どうしても澄んだオカリナのメロディと、の無垢な笑顔を思い出して、逢いたくなってしまう。だが、逢ったところで、相手は自分より年上の大学生で、しかも彼氏持ち。に逢って、届かない片想いを再確認させられるよりは、逢わない方がましだと当麻は考えた。
だが、そんなふうに、を諦めようと思う瞬間が、一番、胸の痛む時だとは、当麻は気づいていなかった。
そして、クリスマスも間近になった週末、終電に乗って伸のマンションに当麻が行くと、いつものように遅い夜食を用意して、伸は待っていてくれた。
早速、テーブルについて、食事を始める当麻に、伸は向かい側の椅子に座って、お茶を飲みながら、何気ない素振りで話を切り出した。
「今日、夕食の買い物に出た時に、ちゃんに会ったんだけど、当麻の事を気にしていたよ」
「そうか」
他に言うべき事も思いつかず、ぶっきらぼうに答える。
「それで、ちゃんから伝言があるんだけど、『クリスマスイブに、午後五時から、駅近くの公園で最後のライブをするから、良かったら来て下さい』だって」
がしゃんっ。思わず箸と茶碗を取り落とす。
「最後って……どう言う意味だ、伸！？」
「さあ。僕は言われた通りの事を伝えただけだよ」
の言葉が、当麻の脳裏に蘇る。
『“私はここにいる”という事を、誰かに届けたいと想ったから。私の作り出す“音”を聴いてくれる人を探してみたかったんです』
――あれはの本心からの願いだったはずだ。それなのに、もう諦めるつもりなのか？ それとも、恋人にバレたら、願う気持ちもなくなったのか？――
無言で唇を噛み締めている当麻を、伸が含みのある表情で見つめていた。
「どうするの？ 行く？ それとも、止めておく？」
「行くさ」
自棄になったように、それでも答えずにはいられなかった。もう二度と聴けないのなら、生涯、耳に残るくらい、真剣にの奏でる音色を聴きたい。それが今の当麻のたった一つの望みだった。
クリスマスイブ当日、あいにくと空は黒い雲で覆われ、雨の予感を漂わせていた。駅近くの小さな公園は、園内の木々と遊具に色とりどりに点滅する照明が飾られており、カップルや親子連れの姿がところどころで見られ、華やかな雰囲気に包まれていた。
公園の中央、イルミネーションに飾られ、頂上に金色の星をつけた大きなモミの木の下で、はいつものように瓶を置いていた。今日はクリスマスにピッタリの、深紅と深緑のチェックのポンチョ姿だった。
当麻が近づくと、瓶から顔を上げたの表情が、輝くように明るくなった。
「当麻くん、来て下さったんですね！ ありがとうございます！」
その無邪気な笑顔に胸が痛むのを感じながらも、当麻は辛うじて微笑んでみせた。
「……伸から、これが最後って聞いたからな。今日は大学の友達は来ていないのか？」
は頭を振って、微笑んだ。
「大学の友達には、友情よりデートを取られてしまいました。せっかくのクリスマスイブなのに、当麻くんの貴重なお時間をお借りしてしまってすみません。私の今年最後のライブに来て下さって嬉しいです」
伸から伝えられた言葉とのニュアンスの違いに、当麻は困惑した。恐る恐る尋ねる。
「今年最後？」
「はい」
が素直にうなずく。
「これからますます寒くなりますから、路上ライブはしばらくお休みして、春になったら再開するつもりです。だから、今年最後と伸くんにはお伝えしたんですけど」
――伸の奴、『今年最後』の『今年』を、わざと抜かして伝えたな！？――
伸に騙された事に気づいた当麻は、ギリギリと奥歯を食い縛った。だが、同時にこれが伸なりの気遣いだと言う事も理解していた。『最後』とでも言われなかったら、当麻はに逢いに来る事など出来なかっただろう。
「雨が降らないうちに始めますね」
が告げて、オカリナを吹き鳴らし始めた。
今日はクリスマスソング中心の選曲だった。オカリナが奏でるクリスマスメドレーに、公園内にいたカップルや親子連れが物珍しそうに集まって来る。
だが、五曲目の『サンタが町にやってくる』に入ったところで、ついに小雨がぽつぽつと降り出した。モミの木の下に立つは、辛うじて枝に遮られて、雨に濡れる事はないが、集まった客には容赦なく、冬の冷たい雨は降りかかって来る。雨足は次第に強くなり、屋根と暖かさのある場所を求めて、集まっていた人々はバラバラに散って行った。結局、最後まで公園に残ったのは、濡れたまま立ち尽くしていた当麻一人だけだった。
五曲目を吹き終わると、は慌てた様子で当麻を手招いた。
「この木の下なら濡れませんから、早くこっちへ来て下さい」
当麻が素直に隣に並ぶと、はバッグからハンカチを出し、当麻の髪や肩を拭ってくれた。
オカリナをケースにしまおうとするに、当麻は頼んだ。
「もう一曲だけリクエストさせてもらえないか？ 『星のララバイ』が聴きたいんだ」
は驚いた様子で瞳を丸くしたが、すぐにニッコリと微笑んで、「良いですよ」とうなずいた。
と並んで、モミの木の下に立ったまま、当麻は雨音の中で響く、オカリナの優しいメロディに耳を澄ませた。すぐ隣で聴こえるの息遣いと、彼女の醸し出す爽やかで温かい雰囲気に、当麻はやはり自分がに、どうしようもなく惹かれている事を再認識せずにはいられなかった。
曲が終わると、は当麻に向かって頭を下げた。
「最後まで聴いて下さってありがとうございます」
そうして、はオカリナをケースに入れ、布と一緒にバッグにしまった。そのままバッグを肩にかけようとするの両手を、当麻は取った。
「当麻くん……？」
不思議そうに小首をかしげるに、当麻は素直な気持ちを打ち明けた。
「、好きだ。初めて逢った時から、ずっと好きだった」
そして、ふっと唇の端を上げて、皮肉気に嗤った。
「迷惑なのは分かっている。には折原さんって彼氏がいて、その上、俺みたいな年下の高校生じゃ、相手にならないよな」
の頬がみるみるうちに赤くなり、声が上ずる。
「ちょ……ちょっと待って下さい。どうして折原くんの名前が出て来るんですか？ 折原くんなら、高校時代から交際している、美人の彼女さんがいますけど」
当麻は思わず口をぽかんと開けた。
「あいつはの彼氏とは違うのか？ だって、以前に会った時は、すごく親しそうだったじゃないか」
「ゼミでも気の合う人の一人ですけど、ただの友達です」
「鈴木さんって人が、折原さんに知られたくなかったから、路上ライブを隠していたって言っていたのは？」
が今度は耳まで赤くなった。
「実は、折原くんは、私達のゼミの指導教授の息子さんなんです。路上ライブをしている事を教授に伝えられるのが嫌で、彼にだけは知られたくなかったんです」
折原に対するの不審な態度が全てが腑に落ち、当麻は「そうだったのか」と呟いた。
そうなると、振られる事を前提に告白した当麻も、どう対処して良いのか、弱ってしまった。とりあえず、伝えてしまったものは仕方ないと、思い切って尋ねる。
「じゃあ、は俺の事をどう思っている？ ただの物好きな追っかけか？」
つないだままだった手を、はギュッと握り返して、微笑んだ。
「私も当麻くんが好きです。……折原くんに年下趣味だってからかわれて、つい『大切なお客様』なんて言ってしまいましたけど、本当は私も初めて逢った時から、当麻くんの事がずっと好きでした」
一瞬、我が耳を疑い、そして、微笑んだままのの瞳に、紛れもない純粋な想いを感じ取った瞬間、当麻は思い切り、を抱きしめていた。
「嘘じゃないよな？ 今更、『今のは冗談でした』って言っても、許さないぞ」
当麻の背中にそっと腕を回し、はささやいた。
「嘘じゃありません。初めて逢った時、当麻くんが私に向けてくれた笑顔を見て、思ったんです。『この人は、私の音を聴いて、私を見つけてくれた人。きっとこの人と出逢うために、私は路上ライブを始めたんだ』って」
思わず当麻も呟いていた。
「……俺も、初めての吹くメロディを聴いて、笑顔を見た時、すごく懐かしく感じたんだ。まるで、ずっと探していた相手に、やっと巡り逢ったみたいに」
――恋に落ちたのは、二人とも一瞬だった。ただ、互いの気持ちに気づいていなかっただけで、初めて逢った時から、二人の想いはつながっていた――
その事に気づいた当麻は幸せな気持ちで、腕の中の最愛の恋人に告げた。
「、愛してる」
「……私も」
ダビデの星を宿したモミの木の下、当麻とは初めてのキスを交わした。夜空に瞬く星のようなイルミネーションが恋人達を優しく見守っていた。
＜終わり＞
＜あとがき＞
この作品は、『Ｍｉｎｏｒ Ｄｒｅａｍ Ｓｅａｒｃｈ』様の２周年企画に参加させていただくために書いた作品です。
初めましての方も、いつも読んで下さっている方も、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
当麻くんが気に入る曲を、トルーパーボーカル集から選ぶ際、「ＳＫＹ ＤＲＥＡＭＥＲ」や「Ｃｏｏｌ Ｍｏｏｎ」も候補に入れたのですが、
オカリナにふさわしそうな曲という事で「星のララバイ」で落ち着きました。
ちなみに実際は、歩道など公道で、所轄する警察署の許可を取ってない演奏行為は、道路交通法で禁止されているそうです。
楽しい企画に参加させていただき、ありがとうございました。