Ｍｉｓｓ Ｒａｉｎ
その日は朝から雨だった。ここ数ヶ月、毛利伸は雨の日を心待ちにしていた。
からん。喫茶店のドアにつけられた鈴が鳴る。
入って来た女性の姿に、伸と共にカウンターに入っていた、バイト仲間の秀麗黄が伸をこづく。
「来たぞ。ミス・レインだ」
今年で大学三年生の伸より、一、二歳、年上だろうか。優しそうでいて、どこか儚げな面持ちの女性は、週に一度、雨の午後に伸と秀がアルバイトしている喫茶店にやって来る。
二人のバイト先は市の文化センター内にある喫茶店。文化センターの館内には市立図書館がある。彼女はいつも雨の日にたった一人で現れ、一人でお茶しながら図書館の本を読み、一時間ほどで去っていく。それで、喫茶店の店員達は、彼女のことを密かに『Miss Rain』と呼んでいた。
「見惚れてないで、行って来いよ」
秀にうながされ、伸はレモン水の入ったグラスをひとつ、銀色のお盆の上に乗せ、脇にメニューを挟んだ。
「いらっしゃいませ。メニューをどうぞ。ご注文がお決まりになったら、テーブルの上のベルでお呼びください」
グラスをテーブルに置いて、メニューを差し出すと、ミス・レインから花の咲くような微笑みが返って来る。
今日もこの笑顔が見られた。それだけでカウンターへ戻る足取りが軽くなる。
「伸、鼻の下が伸びてるぞ」
からかい混じりだが、秀なりに応援してくれているのは分かっている。ミス・レインの接客をさりげなく伸に譲ってくれるのも秀だ。数分後、各テーブルの上に置かれた手のひらサイズのハンドベルが、ミス・レインのテーブルからちりんちりんと音を立てる。伸は急いで、テーブルに行った。
「ご注文はお決まりでしょうか？」
ミス・レインの澄んだ声が響く。
「ダージリンティーとスコーンのセットをお願いします」
復唱して、「かしこまりました」と頭を下げる。ダージリンがアッサムだったり、デザインカプチーノだったり、スコーンがイチゴのショートケーキだったり、シフォンケーキだったりすることもあるが、ドリンクひとつとお菓子ひとつの注文はいつも変わらない。パスタや日替わりランチもお勧めなんだけどと、こっそり伸は思っているが、彼女がいつも訪れる時間帯が昼食には遅く、夕食には早い時間だから仕方ない。
厨房に入り、注文を通すと、伸は紅茶をいれるためにやかんでお湯を沸かし始めた。紅茶は沸かしたての熱いお湯で、ティーパックではなく茶葉で、コーヒーは豆をひくところから始めるのが、ここの店長のこだわりの方針なのだ。
「お待たせしました」
注文の品を全てテーブルに置いた後、伝票の紙ではなく、テーブルナンバーを記した木製のキーホルダーつきの古めかしい鍵を置くのも、お洒落な感じで伸は気に入っている。
結局、今日も一時間ほど本を読んで、ミス・レインは会計を済ませて去って行った。
カウンターの隅のレジから、ドアが閉まるまで彼女の背中を見送ると、秀が呆れた表情でこちらを見ていた。
「お前、いつも見ているだけで、何もしないのな。接客の間に、さりげなく名前や連絡先を聞くとかしろよ」
そうやって、ちゃっかり可愛い女子高生をナンパして、彼女に昇格させてしまった秀からしたら、もどかしいのだろう。もちろん伸だってやろうと思えば、秀よりも上手く声をかけられる自信がある。だが、ミス・レインには、雨を避けて、そっと木陰に羽を休める蝶のような、下手に触れたら壊れてしまいそうな繊細な空気が漂っている。そこが伸の惹かれるところであり、同時になかなか声をかけられない理由でもあったりする。
「もうすぐ梅雨明けだぞ？ 夏になったら、雨も少なくなって、図書館に来なくなるかもしれないとか思わねーのかよ？」
秀の眉間に縦皺が浮かんでいる。
「それまでにはなんとかするよ」
伸の言葉に、秀は疑わしげに首をかしげたが、賑々しい音を立てて、団体客が入って来たので、それ以上は何も言わなかった。
数日後、バイト時間が終了した後、伸は図書館に入った。今、人気上映中の映画の原作本を借りてみようと思い立ったのだった。閉館間近とあって、図書館は人少なだった。
検索ソフトで検索すると、本が貸し出し中だったため、司書カウンターに向かった。すると、司書と話している先客がいた。横顔で気付く。ミス・レインだった。
「……あっ」
伸の声に振り向いたミス・レインは少し戸惑った顔をした後、何かを思い出したように微笑んで、伸に小さく頭を下げた。
「お知り合いなの？」
司書カウンターの女性が首をかしげている。
「喫茶店の人よ。ここの建物の東側にあるでしょう？」
そう言って、ミス・レインはカウンターから身を引いた。
「どうぞ。私達、話をしていただけですから」
「ありがとうございます。……この本を借りたいんですが」
伸が書籍名を口にすると、「あら」とミス・レインが瞳を見開いた。司書の女性が困った顔をする。
「その本は今、貸出予約が殺到していまして、予約されても順番が来るまで、かなりお待ちになると思います」
「そうですか……」
本気で読みたいなら、購入したほうが早そうだと伸は肩を落とした。礼を言って、司書カウンターから立ち去ろうとすると、ミス・レインが声をかけて来た。
「あの……ご迷惑でなければ、私の買った本をお貸ししましょうか？」
秀が隣にいたら、「チャンスだぞ！」と言って、思い切り背中を叩くに違いなかった。伸は思いもしなかった幸運に心躍っていることをミス・レインに悟られまいと、出来るだけ控えめに尋ねた。
「お借りしても良いんですか？」
「ええ、もう読み終えましたし、返していただくのはいつでもかまいませんから」
そう言って、ミス・レインは手に持っていたバッグの中から、伸が読みたかった本を取り出した。受け取った伸は、代わりにメモ帳と筆記用具をミス・レインに差し出した。
「ありがとうございます。……あの、念のためにお名前と連絡先を教えていただけますか？ 僕の名前は毛利伸と言います」
「あ、そうですね」
ミス・レインは綺麗な字で『』と書き、自宅の電話番号らしき番号を書き記した。伸も自分の名前と電話番号を二枚目に書き、ミス・レイン――に手渡した。
「、ナンパならよそでしてくれる？」
からかうような司書の声に、は頬を染めた。恥じらいの表情も愛らしく見えた。
「そんなのじゃないわよ。またね」
司書は「またね」と笑顔で返し、は司書カウンターを離れた。伸もそれにつられて、図書館の外へ赴く。が入り口の傘立てから傘を引き抜くのを見て、伸はそう言えば今日も雨だったと思い出した。
「良く雨の日にここに来られていますよね。雨の日がお好きなんですか？」
「え？」
突然の伸の質問に、驚いた顔で振り向いたは一拍置いて答えた。
「……ええ、好きです」
言葉に反して、寂しそうな微笑みだった。失礼なことを聞いてしまった気がして、伸は焦った。言い訳を探して、口ごもっているうちに、それと悟ったのだろう。はさらっと言った。
「私、雨オンナなんです。大事なことがある時はいつも雨」
小さく頭を下げて「じゃあ」と告げると、は水色の傘をさして市民センターから出て行った。
から借りた本はなかなか面白く、一週間ほどで読み終えてしまった。お礼に小さなお菓子を添えて、次に喫茶店にが来たら返そうと伸は考えていた。……ところが、から本を借りた数日後、気象庁が梅雨明け宣言を出したのとほぼ同時くらいに、秀が予見した通り、ぱったりとは喫茶店に来なくなってしまった。
勇気を出して、教えられた電話番号に電話したのはそれから二週間後。しかし、いつ電話してもベルが鳴り続けるだけで、誰かが応じることはなかった。
「だから俺が言ったじゃんよ〜」
秀が膨れている。が姿を見せなくなって三週間が経ち、用意したお菓子の賞味期限が気になり始めた頃、伸は思い切って、図書館の司書カウンターに向かった。
あの日、と話していた司書が席に着いている。
「……あの」
最初、伸が誰だか分からなかったようだったが、の名前と本を借りたことを話すと、司書の女性は「ああ、喫茶店の……」と呟いた。
「さんのお宅にも何度か電話したんですが、つながらなくて」
司書は眉をひそめた。
「電話はつながらないと思いますよ。は今、入院しているんです」
「入院！？」
「あの子、生まれつき体が弱くて、暑さ寒さや気候の変化が苦手なんです。それで、今くらいの時期になると、入院することが多いんですよ」
「お願いします。さんが入院されている病院を教えて下さい」
深々と頭を下げて、借りた本を返したいし、お見舞いに行きたいと言うと、司書は迷い顔になった。
「本人がなんて言うか……」
結局、当人に許可を得てみるから、数日待ってくれと言われて、病院名をすぐには教えてもらえなかった。無理もない。司書とにとって、伸はただの『喫茶店の人』だ。デリケートな個人情報をいきなり教えてもらえるはずもない。
数日後、祈るような気持ちで司書のもとを訪れると、病院名と病室番号が書かれたメモを手渡された。の字だった。
「病状は快方に向かっていて、退屈しているので、お会いできれば嬉しいそうです」
司書の言葉はなによりも伸の胸に嬉しく響いた。
偶然だったが、見舞いに行った日も雨だった。
受付を過ぎると、真っ直ぐに伸は病室へ向かった。しかし、他に四人分のベッドが用意された部屋は、他のベッドのカーテンは閉じられていたのにも関わらず、唯一つ『』と書かれたベッドだけが空だった。ナースステーションへ行くと、「さんなら、談話室にいると思いますよ」と教えられた。
他に人影のない談話室を尋ねると、は瞳を閉じて柔らかいソファに腰掛け、ウォークマンを聴いているようだった。
「さん」
伸が声をかけると、瞳がゆっくり開かれ、伸を見つけて微笑んだ。ウォークマンを止めて、イヤホンを外す。
「来て下さったんですね。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げるに、「これ、お借りした本とお見舞いのお菓子です」と紙袋を差し出した。中には借りた本と、新しく買い直した菓子を入れていた。が嬉しげに微笑んで、再び礼を言う。
「お体の具合はいかがですか？」
「だいぶ良いの。今日は特に……雨だから」
「雨、だから？」
含みを持たせた言い方につい問い返してしまった。
「普通の人は、雨が降ると頭痛がしたり、古傷が痛んだりして、体調を崩しやすいんだけど、私は雨が降ると体調が良くなるの。逆に天気が良いと具合が悪くなってしまって……。ここ数年、ひどく体調が悪くなって入院するようになってからは、特に差が酷くて」
は「だから雨の日はあまり病室にいたくないの。具合の悪い他の方の迷惑になってしまうから」と付け加えた。話題を変えようと伸はウォークマンを指差した。
「何を聴いていらしたんですか？」
「彼氏……元カレが集めてくれた曲集なの。『雨オンナのにピッタリだ』って、タイトルに雨がつく曲ばかり」
クスクスとは笑っている。でも、その表情はどこか寂しげだった。がっかりする気持ちを隠して、伸は問いかけた。
「彼氏さんがいらしたんですか？」
「ええ。大学のクラスメート。でも去年、振られたの。晴れの日は具合が悪くなってしまうから、雨の日にばかりデートしていて、とうとう飽きられちゃった。別れ際に『次は太陽の似合う女の子を好きになるよ』って言われたの」
続けては、自分は本来、去年、大学を卒業しているはずで、伸に病院を教えてくれた司書は元同級生なのだが、自分は体調が悪化したため、休学して二年目になるのだと語った。
「……嫌だ。今日の私、おしゃべりね。こんな話ばかり。毛利さん、ご迷惑でしょう？」
ミス・レインが儚げに見える事情がいくらか分かった気がした伸は、微笑んで頭を横に振った。
「迷惑なんかじゃないですよ。いくらでもおしゃべりにお付き合いします」
その後は他愛ない話を続けた。伸は喫茶店のパスタや日替わりランチも美味しいのだと力説し、ぜひ食べに来て欲しいとを誘った。は嬉しそうにうなずいた。
一時間も話していると、がうつむき加減になり、呼吸が若干荒くなった。額が汗ばんでいる。調子が良いとは言え、さすがに長時間、続けて座っているのは辛いようだった。
「長居してしまってすみません。そろそろ帰ります」
伸が立ち上がると、は「また来て下さいますか？」とためらいがちに尋ねた。
「さんさえよろしければ。また来ます」
嬉しそうに微笑んだに、自身も幸せな気持ちになって、伸は病院を後にした。
それから、週に一度くらいの割合で、雨の日を狙って、伸はの病院を訪ねた。小さな花束や喫茶店のお菓子を箱に詰めた物を持って行くと、はいつも微笑ってくれる。そして二人は互いに「さん」「伸さん」と呼び合う仲になった。
週が過ぎるごとに、の具合が良くなっていくのが、素人の伸の目にも分かった。もうすぐ九月の長雨が始まるという時期、「退院が決まった」とから告げられた。例年ならば、天気予報に一喜一憂する憂鬱な時期が始まるわけだが、雨の時期が来るのが今の伸には嬉しかった。
「退院したら、喫茶店にお昼を食べに来て下さいね」
「ええ」
は「早く復学したい」と呟いた。大学を卒業したら、あの図書館で司書として働くのが夢だと。
「で、一か月以上も病院に通いつめて、告白してねーだと！？」
バイト中、もうすぐが退院すると打ち明けた伸に、秀はおたまを振り回した。
「向こうは絶対、伸が自分に気があるって気付いてるぜ。告ってみろよ」
「うん。……でも、今は振られちゃうような気がするんだ」
「なんで？ 彼氏とはとっくに別れたんだろ？」
「その理由がさ、彼女が雨の日しか外出できないってことがきっかけだから。さんは思いやりのある人だから、きっと病弱な自分に誰かを付き合わせるのを嫌がるんじゃないかな。せめてもっと元気になって、復学できるくらいじゃないと、交際することなんて考えられないと思うんだ」
「その復学ってどれくらいかかるんだ？」
「まだ、入退院を繰り返して、完全に回復するまで、あと一、二年はかかるんじゃないかって……」
「二年！？ その間、ずっと待つつもりかよ！？」
ちょうどその時、カップルで座っていた男女がテーブルから立ち上がり、会計を頼んで来た。
伸は秀との問答を中断して、小走りにレジについた。会計が済んだところで、また、入り口のドアの開く音がした。とっさにドアを見た伸は微笑んだ。お昼時間に初めて訪れたの姿があったからだった。
ところが、レジの男性が何気なく振り返り、表情を強張らせた。
「……！？」
「浩司……」
が呆然と呟く。浩司の傍にいた華やかな顔立ちの美女が彼の腕を掴んだ。
「誰？ 知り合い？」
「……あ、ああ。前に話した元カノだよ」
美女の赤いルージュをひいた唇が悪戯っぽく釣り上がった。
「ああ、病弱な雨オンナの、ね」
戸惑った表情だったがその言葉に反応した。かすかな微笑みを作り、ぺこりと頭を下げたのだ。
「初めまして。お日様の似合いそうな素敵な彼女ね、浩司」
「まあね」
まんざらでもない様子で、浩司はもう片方の腕で恋人を引き寄せた。
「大学はどうしたんだ？ まだ休学しているのか？」
「ええ。まだ休学中よ。先日、退院したばかりなの」
「そうか。彼女は沙織。会社の同僚で同じチームを組んでいるんだ」
沙織と呼ばれた女性が「さんは今は何をされていらっしゃるの？」と尋ねた。
「療養中なので何も。病院と自宅の往復。あと、週に一度、図書館に立ち寄るくらいです」
の手元の水色の傘を見て、沙織は再度笑った。
「そう言えば、今日も雨ね」
の顔に浮かぶ儚い笑みに耐えられなくなって、伸はレジから出て、の傍に立った。
「お客様、お席にご案内いたします」
「じゃあ」
浩司が片手を上げると、は再び頭を下げて、伸に従った。
伸はを一番奥の席に案内した。
「ちょっと待ってて」
注文も聞かず、勝手に厨房に入ってなにやら作ると、の前にマグカップを置いた。
「これ……？」
「僕のおごり。ミルクを沸かして作った特製のロイヤルミルクティ。落ち着くよ」
ことん。向かいの座席に座って、伸はニッコリ笑った。
「……泣いていいから。この席なら目立たないし」
「私、別に泣くことなんて……」
言いかけたの頬を涙が伝った。ポロポロと次から次へと溢れ出す涙は、今日の雨の雫のようだった。
「私、浩司に彼女が出来たから辛くて泣いているんじゃないのよ。……ただ、恐いの。……私が立ち止っている間に、友達は皆、先に進んでしまう。大学を卒業して、就職して……私だけ、このまま、独りでおいてきぼりにされるんじゃないかって……」
「大丈夫。誰も君を置いて行ったりしない。君は今ちょっと雨宿りしているだけなんだ。止まない雨はないから、ただ待っていればいい」
声を殺して泣き続けるに、伸は精一杯の勇気を出して手を伸ばし、の頭を撫でた。が泣き止むまで伸はずっとその頭を撫でていた。
それから、雨の日にもは喫茶店に現れなくなった。図書館には来ているようだったが、さすがに元カレと鉢合わせした場所にはしばらく来づらいだろうと、伸は寂しい想いを抱えながらも、連絡を控えていた。
数週間後、伸の家の電話が鳴った。
「もしもし、毛利ですが」
『もしもし、私、と申しますが、伸さんはご在宅でしょうか？』
聞こえて来たのはの声。元気そうな声にホッとして、伸は「伸だけど、さん？ 元気だった？」と答えた。
『……伸さん』
少しの声が苦しげになる。
『しばらくお店に行かなくてごめんなさい。伸さんに会いたくなかったわけではないのだけれど、どうしても……お店に行く気になれなくて』
「いいんだ。さんが元気でいてくれれば。それより、さんから電話して来るなんて、どうしたの？ 何かあったの？」
少しためらった後、は思い切ったように口にした。
『明日、お暇ですか？』
唐突に聞かれて、伸はきょとんとなった。
「明日はバイトもないし、暇だけど……」
『では、ご一緒に映画を観に行きませんか？』
唐突な誘いに、でも嬉しくて、「一緒に出かけても良いの？」と問い返した。
『ええ。その代わり、天気予報がなんて言っても、きっと明日は雨が降りますよ』
受話器から聞こえて来たのは、悪戯っぽいクスクスという笑い声だった。伸は素直に了承した。
「うん。嬉しい。一緒に行こう」
翌日は、が予言した通り、雨になった。小さめの雫が傘の上で微妙な音階を奏でている。市民センターの前で待ち合わせした二人は、映画館に向かって並んで歩いていた。
「今日はどんなタイトルの映画を観るの？」
「二枚、チケットをいただいたんですけど、何でも私にピッタリのタイトルなんですって」
はさっと映画のチケットを差し出した。タイトルは『Miss Rain』。
映画は、雨の好きな少女の恋物語だった。彼女に一目惚れした少年が声をかけるが、少女には年上の片想いの相手がいた。しかし、その相手には恋人がいて……。
好きな人に恋人がいると知った日、雨の中、純白のドレスで走りながら、ポロポロと泣くヒロインの姿は、妖精のように美しかった。
上映が終わると、伸はを見た。身じろぎもせずに映画に見入っていたは、ヒロインのようにやはり涙を零していた。
「とても切なくて、ラストはハッピーエンドで良かったです」
伸がハンカチを差し出すと、礼を言って受け取ったは目のふちを拭った。
「知ってた？ うちの喫茶店の店員がつけた、さんのあだ名。『Miss Rain』って言うんだよ」
「私が、ミス・レイン？」
「そう。図書館で名前を教えてもらうまで、ずっとそう呼んでた」
「私はあのヒロインみたいに綺麗じゃないわ」
「綺麗だよ。初めて会った時から、綺麗でどこか儚げで、守ってあげたくなるような人だと思ってた」
は恥ずかしそうに微笑んで、「ありがとう」と告げた。
少し話がしたいとが言ったので、二人は映画館に隣接するファーストフード店に入った。
「実は、伸さんのお友達の秀さんに、図書館でお会いしたんです」
「秀に会った！？ で、秀はなんて言ったの？」
「……伸さんはいつも私を見守って下さってる。これからもずっと見守るつもりでいるって。それに気付いてあげて欲しいって頭を下げられました」
「秀らしいな……」
伸は苦笑した。
「私、自分の病気のことで精一杯で、そういうこと、気付けなくて。でも、伸さんがいつも優しくして下さって、それに救われていたのは確かだったから、反省したんです。それで、一度、きちんと伸さんとお話してみたいなと思って、昨日、思い切って電話をかけてみたんです」
「……僕のこと、迷惑じゃなかった？」
は顔を赤くして、頭を横に振った。
「いいえ！ 喫茶店に行き辛くなって、すぐ気付いたんです。伸さんの『いらっしゃいませ』って言って下さる笑顔が見られないのは寂しいなって。浩司と鉢合わせしても良いから、伸さんに会いに行こうって何度も思ったんですけど、なんだかあんなに泣いてしまったから、恥ずかしくって……」
「恥ずかしくなんかないよ」
伸はそっと手を伸ばし、の頭を撫でた。クスッとは笑った。
「なんだか伸さんは私のお兄さんみたいですね。私の方が二才も年上なのに」
「お兄さん、じゃ嫌だ」
に顔を近づけて、伸は告げた。
「さん、好きです。僕の恋人になって下さい」
途端に耳まで真っ赤に染まった顔を両手で覆い、は口ごもった。
「で、でも、私……病気のせいで、きっと伸さんにたくさん迷惑や心配をかけてしまいます。それに、雨の日にしか私は……」
「大丈夫。僕は雨の日も雨の日が似合う女の子も大好きだから」
「……わ、私も、伸さんのことが……好き、です」
言いながら、の頬を涙が伝った。それは嬉し涙だった。
「おいてきぼりになるのが恐いって言っていたけれど、僕はどこにも行かない。いつだってさんの傍にいる。病める時も健やかなる時も、悲しい時も嬉しい時も、ね」
見つめ合う二人は、互いの瞳にある相手の想いに気付き、どちらからともなく微笑み合った。
帰り道、二人は一つの傘の下で手をつなぎながら、歩いて帰った。
「私、雨オンナで良かった。好きな人と一緒に、堂々とこうして並んで歩けるんだもの」
その言葉に伸は「本当だね」と答えて微笑んだ。
「秀、サンキュ。考えてみると、いつだって秀が背中を押してくれたんだよね」
喫茶店でバイトに入りながら、伸が秀に礼を言うと、秀は豪傑笑いをして見せた。
「本当に感謝して欲しいぜ。『Miss Rain』のチケット二枚、さんにプレゼントしたの、俺だもん」
「秀が！？」
「たまには俺も気の利いたことをするだろ？」
ウインクする秀に「感謝してるよ」と伸は肩を叩き返した。
今日は雨。もうすぐが喫茶店にやって来る。そうしたら、伸は笑顔で出迎えるだろう。『いらっしゃいませ』と。
＜終わり＞
＜あとがき＞
喫茶店で働く伸と、病弱ヒロインを書いてみたかったんです。
いきつけの図書館に隣接して、お気に入りの喫茶店があったんだけど、閉店してしまった時は悲しかったなあ。
なお、ヒロインの病気は実在の病気をイメージしていません。ご了承ください。
あと、タイトルの「ミス・レイン」は武内直子先生のコミックから取りました。
途中の映画のシーンは、武内先生の「ミス・レイン」をイメージしています。
武内先生の短編集って、「いかにも少女漫画〜！ ロマンティック〜！」って感じで良いんですよ！
この次の創作がいつになるかは、まだ分かりませんが、気長にお待ちいただければ幸いです。
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