ＦＬＯＷＥＲ
チャイムの音が鳴り終わると、放送部の昼休みの放送が始まる。千石高校一年生のは、友人のとお弁当を食べながら、流れて来る声に耳を傾けた。梅雨のうっとおしさを払うような、甘くて涼やかな少年の声が、教室に響く。
『皆さん、お昼の時間です。今日もあいにくの雨ですが、水の雰囲気を音楽で楽しみましょう。最初の曲はラヴェルで『水の戯れ』です』
打ち返す波のようなクラシックが流れ始める。
「今日のパーソナリティ、隣のクラスの毛利くんなんだ。相変わらず良い声ね」
の言葉に、少年の声に聞き惚れていたはドキッとした。思わず誤魔化すように尋ねる。
「、放送部に興味あったの？」
「うーん、特に興味があるわけじゃないけど、毛利くんは有名じゃない。入学式の新入生代表の答辞に惚れこんだ放送部部長が、拝み倒して放送部員にしたって。しかも、本人の容姿があの通りの美少年だもの」
「そうだね」
放送部の一年生で、達の隣のクラスの毛利伸は、入試で学年主席の成績を取って新入生代表の答辞に選ばれた。そして、壇上に上がったその姿で、全学年を釘づけにした。紅茶色の髪、碧色の瞳の、少女かと見まごうような美少年だったのだ。そして、更に甘く澄んだ声、外見を裏切らない優しげな物腰で、すっかり校内の人気者になった。
隣のクラスには伸とお近づきになりたいと、出入りする生徒が絶えない。放送部にも入部希望者が殺到したが、「放送に興味のない人間は要らない」と部長に全て叩き出されたと聞く。
「そう言えば、は毛利くんと話した事がある？」
の問いかけに、話題を変えてくれないかなと思いながらも、ぎこちなく首を横に振る。
「ないよ。毛利くんとはクラスも部活も違うし、ちらっと見かける事があるだけで」
「思いきって、声をかけてみれば良いのに。私は何度か話した事があるけど、『千石高校の王子様』って陰で呼ばれている割に気さくだよ」
「私みたいに地味な子が声をかけたって話題がないよ」
私の言葉に、が意味ありげに笑った。
「いつも放送、一生懸命に聞いてますって、一言伝えるだけでも良いと思うけどな。自分で気付いてないの？ 毛利くんがパーソナリティの時だけ、が食事中、無口になるの」
さすが親友、見抜かれていたか……とはため息をついた。
「別に聞き惚れていたって良いじゃない。本当に良い声なんだもの」
「じゃあ、入学式の時の毛利くんの写真も持ってる？」
ポロッ。思わず箸を取り落として、は頬を真っ赤に染めた。
「……な、なんで知ってるの！？」
「私も持ってるから」
にんまりと笑うは「うちのお父さんが、入学式の写真販売の時、答辞の生徒が一人写っているだけの写真が１００枚以上、注文が入っているって不思議がってたの」と答えた。の家が、写真館という写真屋で、千石高校の学校行事の写真撮影も受注していた事をは思い出した。
「つまり、この学校の女子生徒のほとんどが、毛利くんの写真を持っているってことだね」
自分だけの宝物のつもりで注文して、財布にひそめていた写真が、人気のブロマイドだった事実を知って、は苦笑いするしかなかった。
「でも、は他の女子みたいに、積極的に隣のクラスに覗きに行ったりはしないんだよね」
「……だって、私を見てよ。こんな眼鏡の地味子、王子様なんて不釣り合いでしょう？」
「毛利くんは自分と釣り合う、釣り合わない、で他人を判断するような人じゃないと思うけどね」
「、それ以上の話は禁止。放送が聴こえないじゃない」
が言い切って、お弁当を食べ始めたため、はようやく黙った。生徒達のざわめく教室に、放送室からの穏やかな声が流れて行った。
毛利伸とお近づきになれたらいいな。も密かにそう思っていた。でも、に言った通り、は『眼鏡の地味子』と自称するような、内気で冴えない少女なのだ。思っても行動になど、とても移せない。隣のクラスに出入りする少女達のかしましさとたくましさを見ては、自分にはとてもそんなパワーはないと、かえって自信を喪失してしまう。に出来るのは、伸の声に耳を傾ける事くらいだ。
実は、園芸部所属のには、伸の声が聴ける隠れスポットが一つあった。放送室の真下の中庭にある花壇だ。ここに植えられた花に水やりをしたり、雑草の草取りをしている間、は耳を澄ます。聴こえて来る、放送部員の発声練習の声。その中でくっきりと聞き分けられる伸の澄んだ甘い声。伸の声を聞くと、心が温かくなって、部活の地味な作業にも力が入る。今の季節、中央の花壇をにぎわしているのは紫陽花。花言葉は『移り気』だと聞くが、白からピンク、紫から青へと変化して行くこの花が、は好きだ。その名の通り、雨雲で太陽の姿が見えないこの季節を、太陽の代わりに明るくしてくれるように、綺麗に咲いてくれるように、大切に手入れしていく。
そんな梅雨の久方ぶりの晴れ間。達のクラスは、運動場に出て、短距離走をする事になった。
昨日までの雨でぬかるんだ土の上、生徒達は靴が汚れるとぼやきながらも、太陽の下、ホイッスルが鳴れば、元気に走っていく。
も精一杯走ったが、途中で足が滑り、派手に転んでしまった。
「相変わらずの運動音痴だね」
見守ってくれていたに、全身泥まみれだから後で顔を洗ったほうがいいと指摘され、頭をかく。
チャイムが鳴った後、外の水道で顔を洗って、端に置いた眼鏡に手を伸ばした。手が滑り、かしゃんという音がして、眼鏡が地面に落ちた。
「え！？」
慌てて探すが、視界がぼやけて見つからない。かがみこんで、おろおろと手探りしている時だった。
「どうぞ」
誰かがすっと立ち寄って、眼鏡を拾って手渡してくれた。ぼやけた視界のまま、慌ててはお礼を言う。
「ありがとう」
「眼鏡にも泥がついてる。洗ったほうがいいよ」
救い主は優しい声でそう言うと、そのまま背を向けて去ってしまった。
慌てて眼鏡を洗ってかけたけれど、去ってしまった拾い主は、体育帰りの大勢の男子の背中に紛れて、分からなくなってしまった。
「聞き覚えのある声だったな」
声変わり前の少年のような澄んだ甘い声。あの声は……放送部の毛利くん？
「きちんと顔を見てお礼を言いたかったな」
ぽつんと呟いた。真っ直ぐ眼と眼を合わせて「ありがとう」って言いたかった。もうちょっと長く話してみたかった。でも、人気者の彼と地味なでは、こんなすれ違いが精一杯なのかもしれない。
「……王子様って遠いね」
泥だらけの自分の体操着を見下ろして、大きくため息をついた。
そんな遠い存在の伸と対話する機会が巡って来るとは、は思ってもみなかった。
放課後、中庭の紫陽花に水やりをしているところだった。途中でジョウロの水が切れたため、は水道へ行って、水を汲んで戻った。すると、青い花を色鮮やかにつけている紫陽花達の前で、向き合って立っている男女がいた。二人共、誰なのかすぐに分かった。毛利伸と学年一の可愛い女子だ。噂によると、女子生徒はファッション雑誌の読者モデルをしているらしい。
「好きです。私とお付き合いして下さい」
愛らしい声で告げる少女に、伸は申し訳なさそうにかぶりを振った。
「ごめん。実は僕、来年、東京の高校に編入するつもりなんだ。その勉強が忙しいし、今は誰とも付き合う気はないんだ」
女子生徒はワッと泣き出し、その場から駆け出して行った。
告白＆失恋の場面に居合わせてしまった。大変、居心地の悪い気持ちで、はこそこそとその場を立ち去ろうとした。その時、「逃げなくて良いよ」と声をかけられた。
おそるおそる振り返ると、伸が手招きしていた。
「園芸部の人だね。ごめん。嫌なところ、見せちゃったね」
「い、いえ！ 私のほうこそごめんなさい！ すぐに水やりを終わらせますから！」
そそくさと紫陽花に水をやろうとして、伸の顔つきに気付いて手を止めた。
「毛利くん、大丈夫ですか？」
「えっ！？」
「……その、すごく、つらそうな顔してるから」
心配気に見上げるに「参ったな」と伸は苦笑した。
「……僕が悪いんだ。誰も傷つけたくなんかないのに。……やっぱり放送部員なんて引き受けなければ良かったのかな」
悲しげな声に、思わずは拳を握り締めていた。
「そんな事ない。私、毛利くんの放送が好きです。毛利くんの声を聴いていると、心がぽかぽか温かくなって、よーし、頑張るぞって元気になれるの。だから、やめないで欲しいです」
固かった伸の表情がわずかに和らぐ。
「恥ずかしいな。そんなふうに聞いてもらっていたんだ。……君の名前を聞いても良い？」
「一年二組のです」
「ありがとう、さん」
優しく微笑んだ伸の表情を、は生涯、忘れないだろう。
――本当に転校してしまうの？
訊きたい気持ちはあったが、無粋な気がして、そのままは立ち去る伸を見送った。
そして、翌年の春、終業式を最後に毛利伸は東京の高校に転入する事が正式に決まった。大勢の女子達が嘆く中、は思い切ってクラスで提案してみた。
「毛利くんのお別れに花束を届けるというのはどうでしょうか……？」
「それ乗った！」
人望の厚いが一年生から有志を募り、結果、かなりの金額が集まった。毛利伸は一抱えもある、深紅の薔薇の花束を携えて、去って行った。学内ではがっかりする生徒が相当数いたが、それもやがて薄れていった。
伸に影響を受けたというわけではないが、は受験の進路を東京の大学に決めた。広い都内で再会できる可能性など限りなく低く、そもそも東京の大学に進むかも分からない伸の事は、とうに思い出にしたつもりだった。だから、無事、都内の大学に入学し、サークルの他大学との合コンの場で、毛利伸と再会した時は、喜びよりも驚きのほうが大きかった。
「毛利くん！？」
高校一年生の時より大人びた美青年は、それでも王子様の風格と甘くて澄んだ声を残していた。
「……もしかして、千石高校のさん？」
「私の事、覚えていてくれたんですか？」
伸は「うん」とうなずいて、優しい微笑みを浮かべた。
「眼鏡をかけていないし、最初は分からなかったよ」
眼鏡の事を指摘されて、は赤くなった。
「車の免許を取る時にコンタクトに変えたの」
「千石高校出身の人と会えるなんて懐かしいな」
二次会へと移ろうという時、伸には誘われた。
「良かったら、二次会には出ないで、二人きりで話さない？」
思いもつかないお誘いに、はどぎまぎしながらうなずいた。伸を狙っていたらしい、女性陣の冷たい視線を浴びながら、と伸は二次会へ向かう集団から離れた。
未成年の二人は深夜営業のカフェへ移り、伸に尋ねられるまま、は伸が去った後の千石高校の様子を語った。
「毛利くんは千石高校の人とは、連絡先を交換しなかったんですか？」
「うん。引っ越し先がギリギリまで決まらなくてね。放送部の部長さんにだけは伝えた。今でも『戻って来い』ってメールが来るよ」
くすくす笑っている伸にてらいはない。ちょっと……かなり聞きづらかったが、はずっと疑問に思っていた事を思い切って尋ねた。
「どうして、あんな中途半端な時期に、それも東京へ転校したんですか？」
「大切な役割を抱えていてね。あの時は東京に行かないと、果たせなかったんだ」
伸は真面目な顔をしている。つらそうだった昔の伸を思い出して、はおそるおそる尋ねた。
「役割はもう終わったんですか？」
「……まだ終わらない。きっと一生、終わらないだろうね。でも、解決するための方向性は見つかったって感じかな。それでも今の僕には充分だよ」
そう語る伸はかすかだが微笑みを浮かべている。かつてのつらそうな表情はもう見えなかった。それが嬉しくて、はにっこりした。
伸が携帯電話を取り出す。
「ねえ、良かったら、連絡先を交換しようよ」
「え！？」
思わず自分の携帯を取り落としそうになるに、「嫌かな？」と伸は不安気な表情になる。
「とんでもないです。でも、私なんかの連絡先なんて……社交辞令なら、本当に無理しなくて良いですから」
伸が拗ねた表情になる。
「社交辞令で連絡先なんか聞かないよ。機会があれば、またこんなふうに会って話したいって思って」
朗らかに笑う伸の瞳には、嘘のかけらも見当たらなくて、は戸惑った。
「でも、私達、高校の時は、ほとんど話した事がなかったのに……」
「さんは気付いてないみたいだけど、僕は君と中庭で話す、ずっと前から君の事を知ってたよ」
「水道のところで泥だらけになっていた時に、眼鏡を拾ってくれたから？」
伸は「そんな事あった？」と瞳を丸くして、首を横に振った。
「さん、中庭の花壇の世話をいつもしてたよね。あそこ、放送室の窓から良く見えるんだ」
の顔がかあっと赤くなった。伸の声を盗み聞いているつもりが、実はこちらの行動が丸見えだったとは。
「一生懸命に働いている子だな。どんな子だろうって、ずっと気になっていたんだ。だから、君に僕の放送を褒めてもらえた時は、とても嬉しかった。あと、終業式の時のあの豪華な薔薇の花束。あれも君が発案者だって、後から教えてもらったんだ」
「じゃあ、連絡先、教えてください」
二人は連絡先を交換した。
帰宅して、携帯を見たは硬直してしまった。まるで帰宅を待っていたかのように、『今日は楽しかったです。またぜひお話しましょう。お暇な時を教えて下さい』というメールが伸から入ったのだ。
メールを見ながら、「どうしたらいいのかなあ」とため息をつく。華やかなドレスとは縁のない、灰かぶりのままのシンデレラに、王子様が気付くわけがないと思っていた。この連絡先は、にとってガラスの靴なのだろうか？
迷った挙句、地元の大学に進学したに電話すると、『良かったね！ このまま仲良くなっちゃえ』と弾んだ声で言われた。
「でも、私と毛利くんが仲良くなれるとは思えないんだけど……」
『！ いい加減、勇気を出しなさい！ 毛利くんの事、高校の時から気になってるんでしょう？ メール、ちゃんと返信しなさいよ！』
に半ば脅されるようにして、『私も楽しかったです。土日はバイトがありますが、平日の夜なら空いています』と返信した。
のバイト先は花屋だ。園芸部の時から花が好きだったので、大学への通学路で見かけたバイト募集の貼り紙に思いきって飛び込んでみた。今は水仕事と雑用が主だが、いつかはブーケを作れるようになりたいと、なりに頑張っていた。
土曜日の朝、開店前に店内の花鉢を表に出していると、聞き覚えのある声がを呼んだ。
「ちゃん？」
慌てて振り返ると、伸が驚いた顔で立っている。
「伸くん！？」
「土日のバイトって、もしかしてここの花屋さん？」
「はい、そうです」
「驚いたな。僕のマンションはすぐそこだから、この店の前は良く通るんだ」
笑顔で「今度はお客として来るね」と告げて、伸は去って行った。
そして、その言葉通り、伸は時々、お客として立ち寄ってくれるようになった。
「友達がたまに家に遊びに来るんだ。お客を迎えるのにも、部屋に花が飾ってあると、それだけで明るく感じるよね」
小さなブーケを買っていく伸を見るたびに、はあのブーケを自分が作りたいという思いを抱く。
「練習しようっと」
バイト終わりに売れ残りの花を使って、ブーケを作る練習をする。先輩が作るブーケを見せてもらって、技を研究する。伸はどんなブーケが似合うだろう。やはり終業式の時に皆で手渡した薔薇の花束に見合う物は、自分には作れないだろうか……そう思いながら。
バイトが終わって、店を出ると、偶然、伸が通りかかった。
「伸くん」
「こんな遅い時間まで頑張っているんだ。えらいね」
「……うん、早く一人前になりたくて……」
「その手に持っているのは？ 誰かにあげるの？」
は珍しく上手に出来た売れ残りの花のブーケを手に持っていた。お代を払って買い取ったのだ。
「あ、これは練習用に作っていたブーケなの。わりと上手に出来たから、部屋に飾ろうと思って」
「ふうん。……それ、僕がもらったらダメ？」
「だ、ダメ！」
慌てて後ろ手にブーケを隠す。
「これは練習だから」
頬が熱くなるのを覚えながら、言葉を返す。
「伸くんには、最高に上手に出来た花束をあげたいの」
伸の表情が楽しげなものになる。
「そう？ じゃあ、約束だよ？」
小指を差し出されて、「指きり」と言われ、は伸の手に触れた。指先から伝わって来る、伸の手は温かかった。
それからも、週数回の割合で、伸とお茶をした。
伸は紅茶党らしく、美味しい喫茶店を良く知っている。は伸に導かれて、良いお店をたくさん紹介してもらった。
――伸くんと少し仲良くなれたかな……とが思うようになったその矢先のことだった。
伸が綺麗な女性を連れて、花屋へ来た。
長い栗色の髪、緑の瞳。一目で外国の血が混じっていると分かる、年上の美しい女性は、伸と格段に親しい事が明らかだった。
「ナスティはもうじき誕生日だよね。好きな花を教えてよ。プレゼントするから」
「悪いわ、伸。祝ってもらえる気持ちだけで充分よ」
「そう言うと思ったから、直接、連れて来たんだよ。ここの花屋さんは品ぞろえも良いし、リボンも豊富で綺麗にラッピングしてくれるよ？ ナスティのイメージは……そうだな、ピンクの薔薇なんて似合うんじゃない？」
仲良く会話している二人に、はズキズキ痛む胸を押さえていた。
――伸くん、年上の彼女がいたんだ。……綺麗な人。それにとても優しそう。お似合いだな。
最初から、声を聞くだけで満足していた人、遠い人……。彼女がいたっておかしくない。
「さん、私がブーケを作るから、レジ打ちをお願い」
ぼんやりしていたところを、バイトの先輩に言われて、慌ててレジに立つ。ピンクの薔薇にカスミ草をつけた花束は、ナスティと呼ばれていた女性にとても似合っていた。
会計を済ませ、嬉しそうに連れ立って出て行く二人を、は悄然と見送った。
その日から、は伸となるべく会わないようにした。伸の変わらない笑顔を見ていると、綺麗な女性を伴っていた事を思い出してしまう。お茶を飲む約束も、バイトを平日に入れて、やめることにした。
『伸くんへ しばらくバイトが忙しく、会う事ができなくなりました。どうぞお元気で』
メールを送って、ほうっと息をつく。
に報告したら、案の定、激怒されてしまった。
『彼女って決まったわけじゃないでしょ！？』
「ううん、あの親しげな様子は普通の関係じゃないよ」
『だとしたって、婚約しているわけでもなし。略奪愛しても良いんじゃないの！？』
「略奪……それは無理。どう見ても、勝ち目ないもん」
伸は相変わらず、花屋に通っていたが、はカウンターの後ろにいるか、別の客の応対をして、なるべく伸から距離を置いた。
六月に入って、紫陽花が入荷し始めた頃、は床に頭がつきそうなほど頭を下げて、店長に自分が買い取るためのブーケを作る許可をもらった。
「どうしても、私の手で作ったブーケをプレゼントしたい人がいるんです。お願いします！」
「さん、この頃、平日にもアルバイトを入れて、頑張っていたものね。作ってもいいわよ」
伸にはこういうメールを打った。
『お渡ししたいものがあります。今日の夜、いつもの喫茶店で待っています』
セルリアンブルーとピンクの紫陽花で作った花束は、お別れの挨拶のつもりだった。
約束の時間に喫茶店へ入ると、既に伸は席に座って待っていた。
――伸くん、少し痩せた？
気のせいか、少しやつれたように感じられる。
「来てくれて、ありがとう。……これ、約束の花束。私が自分で作ったの」
「ありがとう、僕の好きな色だよ」
にっこりする伸に「あのね」と打ち明ける。
「もう、会うのはやめにしない？」
「え……？」
花束を持ったまま、ぽかんとする伸には早口で言った。
「彼女のいる人とこんなふうに会っていたら、彼女さんも良い気がしないでしょう？ だから……」
「ちょ……ちょっと待って。僕の彼女って誰？」
伸はらしくもなくうろたえているようだった。それを恥じらいと受け取ったは言葉を続けた。
「栗色の髪に緑の瞳の綺麗な人。誕生日に薔薇の花束をプレゼントしていたよね。あの方、毛利くんの彼女なんでしょう？ どうぞお幸せに」
そう言って、逃げるように席を立とうとすると、ガシッとそのまま腕をつかまれた。
「ナスティは僕の彼女じゃないよ。友達皆でお世話になっている、僕達の姉さんみたいな人なんだ」
はあっと大きく息を吐いて、伸はうなだれた。
「この頃、会ってくれないと思っていたら、ナスティの事、誤解していたんだね」
ぼそりと伸は呟いた。
「ちゃんに会えなくて、寂しかった。これ、会えたら、渡そうと思っていたんだけど、機会がなくて……」
伸から差し出された小さな箱を受け取ると、中から赤いチューリップをペンダントトップにした、ネックレスが出て来た。
「雑貨屋で見つけて、ちゃんに似合うと思ったんだ。良かったら、受け取ってくれる？」
別れを告げるつもりがプレゼントまで差し出されて、受け取って良いのか、今度はがおろおろした。
「あのね、赤いチューリップの花言葉は『愛の告白』だって。ナスティが教えてくれたんだ。『待ってるだけじゃダメよ、伸』って。……だから、勇気を出して打ち明けたいと思う」
きょとんとしているに伸は真剣な表情で告げた。
「好きです。僕と付き合ってください」
「ええっ！？」
仰天するに、伸は「本気だよ？」と念を押した。
「高校の一年間だけど、ずっと君を見てた。でも、いずれ転校する身だから、親しくなっても、傷つけるだけかなと思って、伝えられなくて……。再会できて、やっぱりあの頃の気持ちは変わらないって分かった」
「え、でも、私、……地味で伸くんにふさわしくなんか……」
「そんなことない。僕の知るちゃんは、いつも綺麗な花に囲まれていて、とても……眩しく映っていたよ」
の瞳に涙がいっぱい溜まった。ぽろぽろと流れ落ち、ネックレスを濡らす。
「……私も伸くんの事が好きです」
「じゃあ、もう会わないなんて寂しい事は言わないでよ。そして、ネックレスを受け取って欲しい」
のずっと好きだった優しい声が「僕の恋人になって」とささやいている。うつむいたまま、はこくりとうなずいた。
いつだったか、が告げた『毛利くんは自分と釣り合う、釣り合わない、で他人を判断するような人じゃないと思うけどね』というセリフが蘇る。
――ずっと不毛な片想いだと思っていた。でも、伸くんは私の知らないところで、私を見ていてくれたんだ。王子様はドレスアップしていない、灰かぶりのシンデレラも見つけ出してくれたんだね。
幸せな気持ちで、はネックレスを首にかけた。
終
＜あとがき＞
とにかく、伸がヒロインにとって遠い存在の話が書きたかったのですが、なんかあまり思い通りになりませんでした。すみません…。
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