コスモスの純情
※ヒロインの身内の死ネタがあります。ご注意ください。
冬の日曜日。穏やかに晴れて、久方ぶりに気温も上がった。都内の大病院に、友人の秀麗黄の見舞いに来た毛利伸は、陽気に誘われて、少し回り道をしてから、帰ることにした。午後の日差しが優しい中庭を散策しながら、その老女を遠目に見かけた時、伸は違和感を覚えた。
互いが歩み寄るに連れて、距離が近づき、違和感の正体に気付く。
車椅子に乗って、伸と同世代に見える孫らしき少女と、散歩をしている老女はずっと無言だった。車椅子を押している少女はせっせと話しかけているが、老女は白昼夢でも見ているかのように、ぼんやりと宙を眺めている。おそらく少女の話は耳にも入っていないのだろう。老いの孤独を感じさせる光景だった。
白髪は短く整えられ、年相応に皺のある顔立ちも、品があって美しい。若い頃はさぞ美しい女性だったろうと容易に想像がつく。少女もまた老女に似た、愛らしい顔立ちをしていた。
入院患者とその孫娘かなと考えながら、伸が軽く会釈して、二人の横を通り過ぎようとした時、一瞬、老女と目が合った。うつろな瞳に光が宿ったと思ったら、老女に呼びかけられていた。
「伸さん！」
「……は、はい！」
とっさに伸が返事をしたことに、少女のほうが仰天した。
「お、お祖母ちゃん、何を言ってるの？ この人は……」
「伸、です」
狐につままれたような顔をしている孫に向かって、いたって真面目に伸は挨拶した。
「僕の名前は伸です。人偏に申すと書いて、伸」
「……漢字まで同じ……」
なにやら絶句している孫に、老女は見違えるように、にこやかに告げた。
「ほら、伸さんですよ。私が伸さんを見間違えるわけがないでしょう」
確信を持って、孫に言う、柔らかい声まで美しい。
老女は先程まで宙に向けていた瞳を、今はひたむきに伸に向けている。ぼんやりとうつろだった表情が活き活きと輝いていた。
「伸さん。ずっと待っていたんですよ。やっと帰って来てくださったのね。お帰りなさい」
孫が不安そうな表情で伸を見た。伸は穏やかに答えた。
「ただいま戻りました」
老女は嬉しげに微笑んでうなずいた。少女がホッと息をつく。そして、おずおずと尋ねた。
「……あのう、伸さんは、この病院に入院されておられる方ですか？」
「いえ、友人が入院していて、見舞いに来て、面会が終わったところです」
「では、今日はもうお帰りですか？ もし良かったら、この後で少しお時間を作っていただけませんか？」
「それはかまいませんが……」
伸がうなずくと、少女は必死な表情で告げた。
「このまま祖母は病室へ戻って、午後の回診に入りますので、できれば、私と院内の喫茶店で少しお話させてください」
少女のすがるような眼差しと、老女の二人を見守るような微笑みに、気付けば「喫茶店で待っています」と言っていた。
伸は喫茶店で紅茶を頼んで、テーブルに着いていた。老女を病室へ送った少女は、息せき切って喫茶店に入って来ると、伸の向かいの席に座った。待たせた詫びを言い、『』と名乗る。伸より一歳年下の大学一年生だと告げた。伸もまた自身のと大学二年生だと告げる。注文を済ませたは、伸を喫茶店に呼び出した理由を、丁寧に説明した。
「車椅子に座っていたのは、私の父方の祖母です。『伸』というのは祖父の名前です。幼馴染み同士で幸せな結婚をしたのに、祖父は祖母と幼い父を残して戦争へ行って、遺骨ひとつ、帰らなかったそうです」
ここ数年、痴呆が進んで、祖母は帰らなかった祖父をぼんやりと探すようになったのだと言う。が祖母の枕元から借りて来たという、セピア色に変化した白黒写真には、確かに伸にどことなく面差しの似た青年が写っていた。
「亡くなった祖父に似ているなんてご不快ですよね。ごめんなさい」
深々と頭を下げるに、伸は首を横に振って、微笑んだ。
「不快になんて感じませんよ。お祖母様が喜んでくださったのなら、僕も嬉しいです」
の瞳が再び必死な色を帯びる。
「あの……お友達をお見舞いにいらした時でいいんです。祖母の病室も少しで良いですから、訪ねてくださいませんでしょうか？ あんな活き活きした祖母を見るのは久し振りで……。それに……」
つらそうな顔で、祖母は末期の病気でもう長くないのだとは告げた。
この病院は完全看護制なので、基本的に病院側に祖母の世話は任せているのだが、祖母の病状が思わしくないこともあり、大学生で比較的、時間の融通の利くが、頻繁に祖母を訪ねて、こまごまとした付き添いをしているのだと付け加える。
「かまいませんよ。友人は足の骨折で入院しているんですが、普段から元気がありあまっているような男ですから、退屈していて、僕もしょっちゅう見舞いに来ています」
伸は快諾した。
「ありがとうございます！」
表情を明るくしてから、はもじもじと申し出た。
「なにかお礼をご用意させていただいてよろしいでしょうか？ その……お車代のようなものを。病院へいらっしゃるのに、お金もお時間もかかるでしょうし」
それは伸は丁重に断った。
「どうせ友人の見舞いのついでですから、かまいませんよ。臨時のボランティアのようなものだと思ってください」
「ありがとうございます」
は再び、深々と頭を下げた。
「じゃあ、良かったら、僕と連絡先を交換してください」
と携帯の連絡先を交換しながら、最低でも週に一度は病室を訪ねると伸は約束した。
伸から話を聞いた秀麗黄は「へえ」と興味深そうな声を上げた。
「それで、別棟にも通っているってわけか。まあ、そういうボランティアならいいじゃねーか」
当麻と二人でスキーに行って、秀いわく『人生二度目のピンクの可愛いウェアのオネエチャン』にぶつかられてしまい、両足を複雑骨折した秀は、都内の病院に入院する羽目になった。無事だった当麻は大阪へ帰ってしまい、一人暮らしをしながら、東京の大学で学んでいる伸が、退屈している秀を見舞いに訪れているというわけだった。
仕事と幼い弟妹の世話で忙しい秀の両親は、両足を動かせない長男の世話はとてもできないという理由で、整形外科病棟に入院させられたのだが、当の本人はここの病院食は結構、美味いなどと、呑気なことを言っている。
「なあ、伸」
「ん？」
「俺が退院しても、そのばあちゃんの病室、訪ねてやれよ。俺も付き合ってもいいからさ」
こういう発言が、するっと出て来るところが、秀の人の好いところだなと、つくづく感じる。
「うん。秀に言われなくても、そのつもりだよ」
伸も素直にうなずいていた。
「秀は退院したら、大学に専念しなよ。一ヶ月も入院するんじゃ、勉強も遅れて困るだろう」
「試験は終わった後で、大学は冬休み中だから大丈夫だって。……でも、よけいな男まで行かねーほうがいいかな。そのばあちゃんにとってはさ。ずっと待ってた旦那さんとやっと再会したんだもんな。ゆっくり二人きりで積もる話もあるだろうし。……まあ、当分、俺も入院してるし、遊びに来てくれよな」
ニカッと笑った秀は、やっぱり『良い奴』だと伸はつくづく思った。
老女は伸が病室を訪れると、いつも表情を輝かせて出迎える。四人部屋だが、現在は老女ともう一人のみ部屋を使用している。もう一人の入院患者も、から事情を聞かされているのだろう。伸の訪れを不審がることもなく、顔を合わせれば穏やかに挨拶を交わし、そのまま遠慮するように、自分のベッドのカーテンを閉めてしまう。
いつもベッド脇の椅子に座る伸に、ベッドに横たわったまま、ぽつり、ぽつりと老女は昔話をこぼす。
「一緒にコスモスを観に行きましたね。一面の花畑がとても綺麗で……。あなたと私の一番好きな花。あなたは、倒れても倒れても、起き上がって咲く強い花だから好きなんだと教えてくれましたね」
「では、コスモスが咲いたら、一緒に観に行きましょう」
伸の言葉に少女のように嬉しげに、老女は微笑む。そんな時、彼女は本当に愛らしいと伸は想うのだ。
いつも１５分ほど会話をすると、老女は話し疲れて、眠ってしまう。彼女の体力は相当落ちているのだと、実感せずにはいられなかった。
「最近は、一日中、眠っていることが多いんです。でも、以前は苦しそうな寝顔だったのに、今は幸せそう。ありがとうございます」
いつも老女と伸が、二人きりになれるように、席を外しているが、タイミングを見計らって戻って来て、礼を言う。彼女も大学が冬休みなのと、祖母の容態が心配なのだろう。毎日、見舞いに訪れているようだった。
看病疲れもあるのだろう、暗い面持ちのが、安らかな表情で眠る祖母を見る時だけ、穏やかな笑顔になる。もっと彼女を明るい気持ちにさせたくて、伸はいつも老女との会話を終えた後は、と病院内の喫茶店でお茶するようになっていた。は病院通いが生活の中心になっているせいで、話題がないらしく、主に伸が話をする立場になっていた。大学のこと、友人のこと、故郷の萩にいる家族のこと、話すことはいくらでもあった。
喫茶店へ行く前に、秀の病室に連れて行くこともある。秀の繰り出す冗談に、は周囲に気を遣いながらも、楽しそうに笑い声を上げている。は笑顔も笑い声も愛らしいと伸はひそかに思っていた。
「秀さんって本当に楽しい方ですね」
喫茶店で思い出し笑いをしているに、つきんと伸の胸が痛み、自分で面食らった。と共に過ごす時間が増えるにつれて、伸にとって、の存在が少しずつ意味を持ち始めている。
は自分の事を亡き祖父の身代わりだと思っているのに。そう思うと、更に胸が痛んだ。だが、老女を訪ねることをやめる気にはなれなかった。少女に還ってしまった老女の存在もまた興味深く、心温まるものだったからだ。
「祖母と話していて、退屈じゃありませんか？」
心配そうに尋ねるにも微笑んで、首を横に振る。
「僕の母は生まれつき病弱でね。病人と会話するのは慣れてるんだ。それに、君のお祖母様のお話は温かい思い出で満ちていて、聞いていて楽しいよ」
「……祖母は私達、家族にも、祖父と過ごした楽しい話ばかりで、祖父が亡くなって以降の苦労話は、めったにしなかったんです。本当はずっと祖父の帰りを待っていたんですね。だから、亡くなった人の思い出としては話したくなかったのかもしれません」
そう言って、は表情を曇らせる。
「もっと元気なうちに、ちゃんとお祖母ちゃんの話を聞いてあげれば良かった」
「君のお祖母様のお話はいつも幸せそうだよ。短い期間でも愛し合っていらしたんだね」
「祖父母はお互いが初恋の相手だったそうです。元気な頃、『初恋は実らないって言うけれど、ちゃんと実ったのよ』って、繰り返し言う祖母は、本当に幸せそうでした。恋愛結婚なんて珍しい時代に……本当に幸せだったんでしょうね」
笑顔を見せるに、悪戯っぽく伸は尋ねてみた。
「さんは初恋は実るって思ってる？」
「え？」
小首をかしげたは、頬を染めた。
「どうでしょう。祖母のような恋を私はしたことがないですし、恋人もいたことがありませんし」
に恋人はいないと聞いて、伸は心が躍るのをひっそりと隠した。
「伸さんは初恋は実ると思いますか？」
逆に問いかけられて、伸はあいまいに首を振った。
「実ったら良いなとは思うよ。でも、君のお祖母様みたいに、実った初恋をいつまでも綺麗なままで保ち続けるのは難しいと思う」
「……そうですね」
真面目な顔ではうなずいた。
老女の体調は見るからに衰えつつあり、会話できる時間はどんどん短くなっていった。秀は無事に退院したが、いつしか伸は週に何度も、老女の病室を訪ねるようになっていた。
「子どもの頃、あなたは女の子の私と遊ぶのなんて退屈だったでしょうに、いつも一緒に遊んでくださいましたね。二人で手をつないでいたら、どこまでも走って行けそうでした」
「退屈なんかじゃありませんでしたよ」
「学校に入ってから、友達にからかわれるようになって、あなたと挨拶もできなくなった時、本当に寂しかった。いつも遠くから、あなたを見ていました。だから、『結婚を前提にお付き合いしてください』と、女学校に入った年に言われた時は、本当に嬉しかったです」
「僕もあなたをずっと遠くから見ていましたよ」
「ええ、知っていました。時々、家を出る時に、視線を感じて振り返ると、通りすがりのあなたが微笑んでいた。あなたと視線を交わせるだけで幸せでした」
老女は一度として、つらい話をこぼしたことがなかった。本当に夫を愛し、愛されていたのだと、伸は強く感じた。
お別れは予想以上に早くやって来た。その冬一番の寒い日のことだった。予感していたのだろうか。その日、老女はやけに長く話し続けた。既に声はか細くなっていて、呼吸器をつけており、顔を近づけないと聞き取れない状態だった。
「伸さん、ずっと逢いたかった。やっと逢いに来てくださって、本当にありがとう。また子どもの頃のように、二人で手をつないで、どこまでも走って行きたいけれど、もう無理ですね」
「何を言っているんですか。秋になったら、コスモスを観に行くって約束したじゃないですか。元気になってください。二人で手をつないで、コスモスを観に行きましょう」
伸の言葉に老女はふっと微笑んだ。
一瞬だけ、老女の瞳に正気の色が浮かぶ。その顔には、それまでに伸の見たことのない、真剣で誠実な表情が浮かんでいた。
「ご迷惑をかけて、ごめんなさいね、『毛利さん』。どうしても、もう一度、主人に逢いたかったの。でも、もう大丈夫。本物の主人がもうすぐ迎えに来てくれるから。こんなお婆さんでも、あの人は私だと分かってくれるかしら？」
「あなたは今でも充分に美しいですよ。ご主人は一目であなただと分かるでしょう」
「優しいのね。ありがとう。……を頼みます。あの子はお祖母ちゃん子だから、私がいなくなった後が心配です」
そう言うと、目を閉じて、そのまま老女は寝入ってしまった。
その夜遅く、からメールが入った。『さきほど、祖母が亡くなりました。家族全員で看取りました。今までありがとうございました』と短く書かれた文章に、伸は涙をこぼした。
四十九日が終わった後に、から伸に、メールではなく、電話がかかって来た。電話口で、は伸に自宅へ来て、祖母の位牌に線香を手向けて欲しいと頼んだ。伸は引き受けた。
の父は、自宅の門前で挨拶した伸に、ひどく面食らったようだった。
「私はもう父の顔は覚えておらず、写真でしか知らないが、本当に父に似ている。母の最期を安らかなものにしてくださってありがとうございました。……おい、母さん、寿司だ。特上寿司を取ってくれ。せめて、今夜くらいは毛利さんにお礼しないと」
の両親に深く頭を下げられ、その日はの家族と夕食を共にして、伸は家を辞去した。
それから日々は過ぎ去り、とはメールを時々、やり取りするだけの仲になった。法事が続いて忙しそうだったが、は忙しさで悲しみを紛らわせているようだった。
たまに伸のマンションに遊びに来る秀は、「ちゃんと連絡取ってるか？」と尋ねてくる。
「うん。でも、法事で忙しそうだ」
「そうか。支えになってやれよ」
「……なれるといいけど」
老女に『を頼みます』と言われたことが、ずっと伸はひっかかっていた。
季節が巡り、秋になり、コスモスの時期になると、伸はをコスモスの名所に誘った。は喜んで申し出を受け、待ち合わせ場所に現われた。
コスモスの花畑を見ると、驚いた様子では心臓の辺りを両手で包んだ。
「お祖母ちゃんの好きな花……！ 祖母が好きな花だと話したんですか？」
「うん。お祖父様もお好きだったとおっしゃっていたよ」
ピンクや白や赤のコスモス畑で、はポロポロと涙をこぼした。
「お祖母ちゃんに逢いたい……！」
の手を伸は握った。
「お祖母様はお祖父様と子どもの頃、手をつないで、どこまでも走って行ったんだって」
「……どこまでも？」
「うん。きっと今はお二人で、こんなふうに手をつないでいるよ」
「ありがとうございます」
礼を言って、そっと離れようとするの手を、伸はそのまま留めようと、ギュッと握りしめた。
「僕達も……このまま手をつないで行けないかな？」
「え？」
瞳を丸くするに、伸は真剣な表情で告げた。
「最期にお祖母様に頼まれたんだ。さんのことを。……それに、僕ももっとさんのことを知りたい。病院の喫茶店では僕が話すことが多かったから。お祖母様が昔話を話してくださったように、今度はさんが、いろんな話を聞かせてくれないかな？ 君のことが……好きなんだ」
それからためらいがちに伸は付け足した。
「僕をお祖父様の代わりだと思っているのなら、今の言葉は取り消すよ。君の思い出を壊したくないから」
「伸さんを祖父の代わりだと思ったことは一度も……！」
思わず口走ってから、は頬を赤くした。
「……私も知りたいです。……その……私の初恋が実るかどうか。実った後も、いつまでも綺麗なままで保てるかどうかを。伸さんと一緒に」
今度は伸が頬を赤くする番だった。
「僕がさんの初恋？」
こくりとがうなずく。
「それは……光栄だな」
手をつないで、新しい恋の予感に頬を赤く染めたまま、二人はコスモスを眺めた。コスモスは柔らかな秋風に揺れ、二人を見守っているようだった。
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