２、天使の微笑み
落ちこんだ時、寂しい時、が行く場所はいつも決まっている。
並木通りの外れにある、しゃれた紅茶専門店。美味しいお茶とお菓子…そして、もうひとつ、心を癒してくれる存在がそこにはあった。
ちりんちりん。木製のドアを押すと、かすかに鈴が鳴る。甘く馥郁とした香りがたちこめた店内は、英国のアンティーク家具で飾られ、穏やかな雰囲気を醸し出していた。
店内を流れるのは優しく澄んだメロディ。聞き覚えのない曲だが、不思議と耳に馴染んで心地良い。小川の流れる音をオルゴールに編曲したら、こんなメロディになるのかもしれない。
昼時には遅く、おやつ時には少し早いという中途半端な時間のせいか、店内のお客はまばらだった。はお気に入りの窓際の席を選んで腰かけた。レースのカーテン越しに降り注ぐ陽射しが優しい。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声でカウンターから現れるのは、紅茶色の髪と緑葉色の瞳の美少年。名前は毛利伸。美貌と甘い声、穏やかな物腰で有名な、この店の名物ウェイターだ。
伸がレモンで風味づけした水と、手製のメニューを運んでくる。厚紙をモスグリーンの和紙で覆ったメニューは目と手に優しい。
いつもはダージリンやアッサムなど飲みやすい物を選ぶのだが、今日は茶目っ気を起こしてみた。
「ラプサンスーチョン。それからスコーンのセットをお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
柔らかな微笑と共に告げられる声は、甘さと優しさを絶妙にブレンドした天上の音色。生まれながらに神様に愛されている、そんな存在がいるとしたら、きっと伸のことなのだろう。はそう思う。
この店には、伸を目当てに通う女性客も多い。白状すると、もその一人だった。落ちこんだ時に見る彼の笑顔と澄んだ声は、沈んだ心を洗い流してくれるようだ。
カウンターへと身を翻す伸の背に、ふわりと広がる純白の天使の羽の幻が見えた気がした。
読みかけの文庫本のページを、さほど熱心でもなく繰っていると、「おまたせしました」という声が耳に飛びこんで来た。
テーブルクロスに置かれたティーポットとスコーンの香りに、は目を細める。ティーセットは有名な銘柄だが、デザイン自体は白磁のシンプルな物だ。
最初の一杯をティーポットから茶碗にサーブしてくれた後、ポットにティーコージをかぶせ、伸はカウンターの奥に去る。何度となく繰り返した、いつものやりとり。
ところが、伸はカウンターからすぐに再び戻って来た。これは今までになかったことだ。
「どうぞ」
差し出されたのは硝子のグラスに盛りつけられた、ふんわりと丸いバニラアイスクリーム。
は戸惑って、伸を見上げた。アイスクリームなんて注文していない。第一、この店のメニューにアイスクリームの項目はない。
驚いて言葉の出ないに、伸は天使の微笑みで告げた。
「サービスです。今日はいつも以上に、沈んでおられるように見えたものですから」
「君に微笑って欲しくて」とつけくわえられて、は口元をほころばせた。
「お気遣い、ありがとう」
「どういたしまして」
伸が去り、アイスクリームを食べ終えた後、はグラスの下に敷かれた紙製のコースターに、何か書いてあることに気がついた。
繊細な文字で短く数行。携帯電話のメールアドレスと電話番号。
『mouri_shin@tokomo,ne,jp ０９０−××××ー××××』
これは、天使のお誘い…？ それとも悪魔のささやき？
薬草の香りのするラプサンスーチョンを飲み干すまで、はゆっくりと、この意味を考えてみようと思った。
＜終わり＞
＜あとがき＞
単に自分が紅茶専門店に行きたかっただけ。そんな人いないとは思いますが、作中のメアドは本気にしないでくださいね（汗）
この前、ＪＲ名古屋駅の新幹線待合室で、ラプサンスーチョンのペットボトル（ミニサイズ）を見つけました。あまりの珍しさに即買いしました。匂いは抑え目だったけど、やっぱり正露丸風味がしました（笑）神無月は気に入ったけど、一般受けはしなさそうだなあ（笑）
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